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越国(越州・三越)・ウィキペディアより(パブリックドメイン) |

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新潟育ちですが、高校を卒業後18歳で新潟をはなれた者の1人語りですです。
お時間(暇)がある方はちょっと寄ってみてください。
あれから50有余年、還暦どころか古希も過ぎましたが、寒くても暖かい、魅力がたくさんある新潟を今でも愛しております💖💦。
2005年に81万人を超えた新潟市は、2007年に政令指定都市になり、一応大都市の仲間入りしました。
離れて故郷を見ていても、新潟県(新潟市)なかなかすごいなあ~(誇らしいなあ~)と思いますね😉
今思うと、このころが今世紀に入っての新潟県の躍進の1つのピークのように感じます。
次のピークが、2015年の北陸新幹線の全線開業の頃に少しあったようですが・・・。
あれから7年、今現在はちょっと一段落というところですかな(個人の感想ですのでオコラナイデネ😅)
でもちょっとしょーしい(シャイ)だけど気持ちが優しくて温かい人が多い新潟県が懐かしく好きですね。
新潟市の人口は今年78万人ほどです。新潟県の人口は215万人、ちなみに05年は243万人あったのですがで徐々に減り続けています。
今から134年前の明治21年(1888年)の日本の人口は4000万人弱、新潟県の人口は166万人で全国1位でした。(その後も何回か1位になっています)
2位兵庫151万人、3位愛知143万人、そして4位東京135万人だったそうです(◎_◎;)。
江戸時代には新潟県(越後)の存在はもっと大きかったようです。
人口はまあ国や県の力の1つのバロメーターであろうかと思いますが、新潟に限らず多くの県の人口は減っているんですね。👉つまり日本の人口が減りつづけていて、国力も落ちつつある??
さて、一般的に新潟県のイメージといえば、まずお米(コシヒカリ)と米菓、そしておいしい日本酒と大雪でしょうかね。
日本酒と言えば私は、「吉乃川」「菊水」それに「久保田」などが好きです。
他には「おけさ」の佐渡と「朱鷺」、信濃川と萬代橋、それに上越新幹線と新潟港、越後湯沢のスキー場とリゾートマンション群が思い浮かびます。
新潟港はあまりメジャーではないのですが、なかなかすごいんですよ。
ただ以上に上げたイメージだけでは、『発展』の原動力としてはちょっと弱いのですが、近年いろんな産業が育っている様で、まだまだ発展していただきたいと思っている今日この頃です。
いろいろ書いていたら新潟に帰ってみたくなりました。
ここ3年位帰っていないのですが、来年には一度帰ってみたいなあ~。
今日はこの辺で。
新潟あれこれ、まだ続きます。
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今日もちょっと軽めの「のり」の新潟県関連です。
前回新潟市の読めない?地名を投稿したのですが、今回は新潟県全体です。
個人の暇つぶしでもありますので、お暇のある方はお付き合いください😅
新潟県にゆかりのある人は割と簡単に読めるけど、他県の人には難しいかな?という地名を集めてみました。
まず市町村名からです。
新発田市 にいはったではなく「しばた」と読みます。新潟県の北部(下越)にある9万人強の人口の城下町です。まあまあ大きな市なんです。
糸魚川市 新潟県の南端「いといがわ」ですね。昔は翡翠(ひすい)が産出されたのが少し有名で、自然が豊かなところです。文字通り海の魚が美味です。
小千谷市 上越地方で雪がたくさん降る地域の1つです。東日本の人だと知っている方も多いかと思いますが、おじやではなく「おぢや」なんです😅
能生町 旧町名で「のうまち」ですが、2005年に糸魚川市に合併吸収されました。
頚城村 「くびき」村でこちらも2005年に上越市に編入合併。
新発田市五十公野 「いじみの」と読みますが、20年前くらいまで私も読めませんでした。きれいな公園があります。
上越市直江津 「なおえつ」です。1971年に直江津市と高田市が合併して上越市になりました。上杉謙信や直江兼続で有名で、御存じかな?
だんだんマニアックになっていきます。
新潟市秋葉区草水町 くさみずではなく「くそうず」まちです。新津市にあった地名ですが、平成の大合併で新津市が新潟市に編入されました。お察しの通り臭い水のことで、石油が噴出して新津油田があったところです。
糸魚川市というか新潟県の西端、親不知・小不知 「おやしらず・こしらず」観光地なので読める人は読めるが読めない人は・・・。昔の越後の国の北陸道の難所。地名をクリックするとWikipediaリンクします。
いやあ~まだまだあるのですが、この辺にします。
今度は新潟県の方言、新潟弁などもご紹介しようかな?
「おめさんがた、いっぺことあるすけ待ってれや💧」(あなたがた、たくさんあるから待っててね)いや待ってろよ・・・かな?
読んでいただきましてありがとうございました!。
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どこの県にも地元民以外には読めない、いや地元民でも読めない?読みにくい地名があるものですが、新潟県も多いと思います。
県も広いので今回は新潟市のみにします。
新潟市の難読地名を難しいものから、わたしの一存で並べてみました。
正解は新潟市の写真の次に・・・、皆さんは読めるでしょうか?
1 沼垂 (中央区)
2 撞木 (江南区)
3 祖父興野(江南区)
4 鳥屋野 (中央区)
5 鐙 (中央区)
6 石動 (東区)
7 小張木 (中央区)
8 五十嵐 (西区)
9 女池 (中央区)
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新潟市の萬代橋と信濃川 写真AC様 |
正解は1ぬったり 2しゅもく 3おじごや 4とやの 5あぶみ
6いするぎ 7こばりのき 8いからし 9めいけ です。
沼垂はむかし妹が通っていた沼垂高等学校がありました。有名な大女優、岡田茉莉子さんの出身校でもあります。(当時は旧制の新潟市立高等女学校です。)
(さらに今は移転して校名が新潟市立万代高等学校に変わっています。)
2はともかく3は絶対読めないですよね?
4の鳥屋野は鳥屋野潟という湖があり、鳥屋野球場という新潟では有名な野球場もあります。
8の五十嵐はいがらしではありません。9はなんとなく艶っぽい地名ですね。
実はもと新潟市民の私も5つしか読めませんでした(;´・ω・)💧
お言うことで今回は軽い話題でした。
次にもこんな話題を時々書こうかと思います。
新潟県はほんと懐かしい、かずじでした。
わたしは滋賀県(彦根城に近い?)で生まれ、5歳から高校卒業の18歳まで新潟で育ちました。
それから名古屋近郊に4年、その後は首都圏で数回引っ越しをして、現在の住居には30年近く暮らしております。
そんな私ですが、滋賀県での記憶があまりないので、自分のふるさとはやっぱり新潟だなあ~という気持ちです。(13年しかいなかったのですが)
ということで・・・またね😅
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今日は秋分の日でお彼岸の中日です。
『暑さ寒さも彼岸まで』と、昔の人はよく言ったもので、すっかり夏の名残りも薄れて、秋の気配が強くなってきました。
もう何日も昼間でもエアコンをつけなくても済んでいます。
👉電気代が助かります😅
今日は以前に市の健康診断の集団検診を予約(朝8時)していたので、雨の中クルマで会場に行ってきました。
9時には終わったので、「どこかで朝食を」とか思ったのですが、ファミレスなどはカミさんが嫌だというので、結局どこにもよらず家に帰って(いつもの)パンと牛乳とコーヒーの朝食にしました。
父は75歳、母は79歳でもう20年以上前に亡くなっています。
父は戦争末期にソ連の捕虜となり3年位強制労働に従事し、帰国後は故郷の滋賀県で働いていましたが、35歳くらいの年に新潟に住む戦友のつてをたどって、母と子供(わたしと妹2人)を連れて新潟県新潟市に出てました。
昭和30年(1955年)、新潟大火があった年で、わたしは5歳で妹は3歳と1歳。
父は環境が全く違う慣れない土地で働いて、骨をうずめるつもりで新潟市の霊園にお墓を立てました。
ところがいろいろあって熟年離婚👉別居になってしまった後、父は一人で滋賀県(京都にも)にもどって、滋賀県のもともと檀家であったお寺に先祖代々のお墓を新しく立てました。
75歳で亡くなった父の葬儀後、私が喪主でそのお墓に埋葬しました。
新潟に1人残った母はその後79歳で亡くなり、私が喪主で父が立てた新潟市の霊園のお墓に埋葬しました。
ということで、私の両親は滋賀県と新潟県で別々に眠っていて、息子の私でも2人の関係を理解・納得するには、なかなか難しいものがありましたが、まあ自分たちの人生だからな・・・と納得しています。
母のお墓参りはコロナ前の3年前までは2人の妹と年1回もしくは2年に1度は行っていましたが、それ以後行けていません。
父のお墓参りは、亡くなっての葬儀後2回か3回は行ったのですが、そのお寺との縁も薄いことと遠くなのもありなかなか行けていないのが実情です。
ということで、今年はもうお彼岸に行くのは無理ですが、冬になるまでの11月までには滋賀県にある父の墓参りに行こうと思っています。
かなり山の方の田舎にあるお墓なので、長い階段がありリウマチのカミさんには登るのが大変で、あと何回行けるかわかりません。
両親あるいは先祖代々のお墓が遠方にあるのは、なかなか負担が大きいものですね。
自分が亡くなってしまった場合、嫁に行った2人の妹(あるいはその子供=甥姪)にはどちらのお墓も維持するのが難しい気がします。
そのこともあり私は、カミさんにはどちらのお墓にも入らないので、散骨でもしてもらうように何気なく話しています。
もしカミさんが先に逝くような場合には、また変わってくるので子孫のいない夫婦には考えても難儀なことですね(゚Д゚;)
両親の離婚については、他人はもとより子供でもわからない複雑なこともありますが、今になると私は父親の方の非が大きいかなとは思いますが、それで一方的に父を責めることもできません。
新潟と滋賀のちょうど中間くらいのところに、この世の住まいを持っている息子のわたしが、お彼岸に思うことでした。
1冊の長編小説になるくらいの、もっと詳しい話ももちろんあるのですが、匿名のブログでもなかなか書けません・・・(m´・ω・`)m ゴメン…
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東京オリ・パラ開会式担当だったミュージシャンのO(仮名)、高校時代(だけでなく小学校の時かららしい)に障害のある同級生などを、犯罪に該当する方法で、虐めていたという件は不愉快すぎるニュースでした。
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さらに20代なってから雑誌などでこの『虐め自慢』をしており、いまだに謝罪も反省もしていないとネットなどで批判をあび、辞任に追い込まれたわけですね。
わたしはこの詳しい記事を見ていて、なぜか急に自分の中学校2年生の時の記憶がよみがえってきました。
とはいえ、こんなひどいというか残酷すぎる『虐待』のようなことでは全くないのですがね(・・;)。
1963年わたしは新潟市立の某中学校の2年生でした。
米国のケネディ大統領が11月22日(金曜)現地時間12時30分、ダラスで暗〇されるという衝撃的な事件がありました。
その事件は、日本に日本時間で翌11月23日午前5時28分に、始まったばかりのNHKテレビ宇宙中継で伝えられました。
わたしは23日の朝学校に来るまでまだ知らなかったのですが、授業を受ける中学校の、午前の国語(もしかしたら社会科?)の担当の先生には伝わっていました。
ということで、これからようやく本題なのですが、しっかりした記憶の実録なのです。
2年生になった時、クラス替えで新しく同じクラスになった、ちょっとやんちゃ且ついじめ体質のA(仮)という同級生がいました。
その頃の私は体力的な意味で❝強くもなく弱くもなく❞、とくに目立ったところはない生徒でしたが、新学期から11月まで半年、そのAとは相性が良かったのか悪かったのか、学校内だけですがわりと一緒にいる場合も多かったです。
ただ仲が良いときもあったのですが、かなり頻繁にAが私を(ほかにものに対してもやっていたようですが)身体的に悪ふざけで、いじってくるのですね。
Aが私を舐めていたというのはあると思いましたが、いじめというのでもないような、ただ一方的な悪ふざけをされる関係性の、今思うとやはりいじめか?微妙なところでした。
普通に接していたかと思うと、急に手や手首の関節技を仕掛けられたということが良くありましたが、決して頭や体を殴ったり叩いたり、相撲や柔道の投げ技という派手なことはないのでした。
笑いながら手首を思い切り甲の方に執拗に曲げられたりするには、はたから見て感じるよりけっこう痛いもので、場合によっては関節が破損するかもしれない恐怖感もあるのです。
わたしも決して弱い方ではなかったのですが、なぜか蛇とカエルの関係のように?反撃できる雰囲気がなく、いつもやられっぱなしで、痛いけど「やめろよ😅💧」とか相手に悪いこと何もしていないのに「ごめんごめん😂」と謝ったり、笑いが引くか引かない微妙なライン。
そういった関係が半年続いて、11月23日の朝の休み時間、その日もまた何の拍子かSから関節技を仕掛けられました。
その時も結構痛いのと、いつもやられていることにも非常に腹が立って、ふざけて仕掛けて油断しているAの2~3本の指を逆にとり、力を入れて逆に曲げ返したのです(`・ω・´)
いつもやられていたのでわかるのですが、やり過ぎれば指または手首の関節が外れるか、指が折れるかも知れません。
👉その時は一瞬、そうなってもいいや!という気持も少しはあり、被害者が一転加害者になってしまう暴力なるかと思うと怖いものです。(今思うと)
周りは2人がふざけて遊んでいるくらいに感じていたと思いますが、Aの痛みは相当だったようで、泣き叫ぶ寸前、「いたたたた!ごめん!悪かったごめん!(゚Д゚;)💦」⇨事故になる寸前に解放!(;´・ω・)。
この間1分くらいだったかと思いますが、今思い出しても後味の悪い思い出だったのですが、Aの指折らなくてよかった(;´・ω・)💧💧
その休み時間の『私たちのちょっとした事件』の後の授業で、国語教師からアメリカのケネディ大統領が暗〇されたことを生徒に伝えられ「こんなことあってはならない」と言わていれたのを覚えています。
それ以来Aは私を見ると目をそらすようになり、もちろん話をすることもなく、Sの記憶は殆どなくなってしまい、翌年の3年生の4月には別のクラスになりました。
ケネディ大統領はその日、銃撃という暴力で命を落とされてしまいました。
わたしはその日以来58年間、実力を伴う「けんか」というものをしたことがなく、暴力的なものから無縁の人生を歩んできて、恥ずかしながら古希も過ぎてしまいました。
犯罪的なOの所業と関連してAとの話を出して、Aにはすまないような気もするほどですが、そのクラスの同級生の名前をほとんど忘れてしまったのに、このエピソードとAの名前はしっかり憶えているのですね。
『やられた』方は半世紀以上経っても忘れないもので、Oの被害者のみなさんだけでなくいじめを受けた人は、今後何十年もいや死ぬまで忘れられないでしょう。
中学校卒業以来1度もAとは会っていませんが、いまごろどうしているかと思うことがたまにはあります。
翌年64年6月に新潟国体と新潟地震があり、秋に東京オリンピックとがあったころの出来事であります。
58年前のはなしを長文お付き合い戴きまして、ありがとうございます。
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春の鶴ヶ城風景 |
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出典:ウィキペディア 、パブリックドメイン 錦絵『新潟湊之真景』安政6年井上文昌筆(新潟県立図書館蔵) |