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2022年11月10日木曜日

元新潟県民が語るとりとめのない新潟のこと(2)

元新潟県民ですが、新潟県人には入るのかな?
東京にある県人会で、人数は新潟県人会は最も多いと聞いたことがあります。

日本の古代には『越国(こしのくに)』がすでにありまして、のちに南から越前・加賀・能登・越中・越後に分割されました。

現在の福井県から新潟県北部(山形県の一部を含む)の下図で赤い部分ですね。

越国(越州・三越)・ウィキペディアより(パブリックドメイン)


越後の国は797年にできた続日本書紀に登場しています。

そして時代は下って・・・この地域は、北陸3県(福井・石川・富山)と言われる場合が多く、北陸4県とはあまり言われず、新潟は北陸地方に入らない場合が多い・・・どうなってんねん?・・・😓

北陸北部などという場合もあるが、あまりなじみがない。

じゃ~新潟は東北に入るの? いやいや違うなあ~。新潟の電機は東北電力だけど(;´・ω・)

わたしが子供の頃には、新潟県は中部地方と習いましたが、現在はどうなんでしょうか、イメージとしては中部という感じではないのですが。

また関東甲信という言葉がありますが、これにが入らない場合も多く、日本気象協会の天気予報では、「関東・甲信」と言う方が多いかな?

たまに関東が抜けて、甲信地方という場合がたまにあります。

うーっむ!どこに入らなくてもまあいいっか!新潟は新潟、越後は越後だい!


いやあ~!ほんとにとりとめないですね(;^ω^)

今日はこの辺で。



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2022年10月30日日曜日

元新潟県民が語るとりとめない新潟のこと(1)

新潟育ちですが、高校を卒業後18歳で新潟をはなれた者の1人語りですです。

お時間(暇)がある方はちょっと寄ってみてください。

あれから50有余年、還暦どころか古希も過ぎましたが、寒くても暖かい、魅力がたくさんある新潟を今でも愛しております💖💦




2005年に81万人を超えた新潟市は、2007年に政令指定都市になり、一応大都市の仲間入りしました。

離れて故郷を見ていても、新潟県(新潟市)なかなかすごいなあ~(誇らしいなあ~)と思いますね😉

今思うと、このころが今世紀に入っての新潟県の躍進の1つのピークのように感じます。

次のピークが、2015年の北陸新幹線の全線開業の頃に少しあったようですが・・・。

あれから7年、今現在はちょっと一段落というところですかな(個人の感想ですのでオコラナイデネ😅)

でもちょっとしょーしい(シャイ)だけど気持ちが優しくて温かい人が多い新潟県が懐かしく好きですね。

新潟市の人口は今年78万人ほどです。新潟県の人口は215万人、ちなみに05年は243万人あったのですがで徐々に減り続けています。


今から134年前の明治21年(1888年)の日本の人口は4000万人弱、新潟県の人口は166万人で全国1位でした。(その後も何回か1位になっています)

2位兵庫151万人、3位愛知143万人、そして4位東京135万人だったそうです(◎_◎;)。

江戸時代には新潟県(越後)の存在はもっと大きかったようです。


人口はまあ国や県の力の1つのバロメーターであろうかと思いますが、新潟に限らず多くの県の人口は減っているんですね。👉つまり日本の人口が減りつづけていて、国力も落ちつつある??


さて、一般的に新潟県のイメージといえば、まずお米(コシヒカリ)と米菓、そしておいしい日本酒と大雪でしょうかね。

日本酒と言えば私は、「吉乃川」「菊水」それに「久保田」などが好きです。

他には「おけさ」の佐渡と「朱鷺」、信濃川と萬代橋、それに上越新幹線と新潟港、越後湯沢のスキー場とリゾートマンション群が思い浮かびます。

新潟港はあまりメジャーではないのですが、なかなかすごいんですよ。


ただ以上に上げたイメージだけでは、『発展』の原動力としてはちょっと弱いのですが、近年いろんな産業が育っている様で、まだまだ発展していただきたいと思っている今日この頃です。


いろいろ書いていたら新潟に帰ってみたくなりました。

ここ3年位帰っていないのですが、来年には一度帰ってみたいなあ~。


今日はこの辺で。

新潟あれこれ、まだ続きます。


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2022年10月1日土曜日

他県の人には読めないよね? 新潟県の難読地名9選

今日もちょっと軽めの「のり」の新潟県関連です。



(新潟県はむかしは越後と言われました。南北に3つ、北から下越・中越・上越と区分され、それに忘れてはならない佐渡が加わります)


前回新潟市の読めない?地名を投稿したのですが、今回は新潟県全体です。

個人の暇つぶしでもありますので、お暇のある方はお付き合いください😅


新潟県にゆかりのある人は割と簡単に読めるけど、他県の人には難しいかな?という地名を集めてみました。


まず市町村名からです。

新発田市 にいはったではなく「しばた」と読みます。新潟県の北部(下越)にある9万人強の人口の城下町です。まあまあ大きな市なんです。

糸魚川市 新潟県の南端「いといがわ」ですね。昔は翡翠(ひすい)が産出されたのが少し有名で、自然が豊かなところです。文字通り海の魚が美味です。

小千谷市 上越地方で雪がたくさん降る地域の1つです。東日本の人だと知っている方も多いかと思いますが、おじやではなく「おぢや」なんです😅

能生町 旧町名で「のうまち」ですが、2005年に糸魚川市に合併吸収されました。

頚城村 「くびき」村でこちらも2005年に上越市に編入合併。

新発田市五十公野 「いじみの」と読みますが、20年前くらいまで私も読めませんでした。きれいな公園があります。

上越市直江津 「なおえつ」です。1971年に直江津市と高田市が合併して上越市になりました。上杉謙信や直江兼続で有名で、御存じかな?

だんだんマニアックになっていきます。

新潟市秋葉区草水町 くさみずではなく「くそうず」まちです。新津市にあった地名ですが、平成の大合併で新津市が新潟市に編入されました。お察しの通り臭い水のことで、石油が噴出して新津油田があったところです。

糸魚川市というか新潟県の西端、親不知・小不知 「おやしらず・こしらず」観光地なので読める人は読めるが読めない人は・・・。昔の越後の国の北陸道の難所。地名をクリックするとWikipediaリンクします。


いやあ~まだまだあるのですが、この辺にします。

今度は新潟県の方言、新潟弁などもご紹介しようかな?

おめさんがた、いっぺことあるすけ待ってれや💧」(あなたがた、たくさんあるから待っててね)いや待ってろよ・・・かな?


読んでいただきましてありがとうございました!。



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2022年9月26日月曜日

これは読めない? 新潟県の地名(新潟市編9選)

どこの県にも地元民以外には読めない、いや地元民でも読めない?読みにくい地名があるものですが、新潟県も多いと思います。

県も広いので今回は新潟市のみにします。

新潟市の難読地名を難しいものから、わたしの一存で並べてみました。

正解は新潟市の写真の次に・・・、皆さんは読めるでしょうか?

1 沼垂  (中央区)

2   撞木  (江南区)

3 祖父興野(江南区)

4 鳥屋野 (中央区)

5   鐙   (中央区)

6 石動  (東区)

7 小張木   (中央区)

8  五十嵐   (西区)

9 女池  (中央区)


新潟市の萬代橋と信濃川 写真AC様

正解は1ぬったり 2しゅもく 3おじごや 4とやの 5あぶみ

6いするぎ 7こばりのき 8いからし 9めいけ です。

沼垂はむかし妹が通っていた沼垂高等学校がありました。有名な大女優、岡田茉莉子さんの出身校でもあります。(当時は旧制の新潟市立高等女学校です。)

(さらに今は移転して校名が新潟市立万代高等学校に変わっています。)

2はともかく3は絶対読めないですよね?

4の鳥屋野は鳥屋野潟という湖があり、鳥屋野球場という新潟では有名な野球場もあります。

8の五十嵐はいらしではありません。9はなんとなく艶っぽい地名ですね。


実はもと新潟市民の私も5つしか読めませんでした(;´・ω・)💧


お言うことで今回は軽い話題でした。

次にもこんな話題を時々書こうかと思います。

新潟県はほんと懐かしい、かずじでした。


わたしは滋賀県(彦根城に近い?)で生まれ、5歳から高校卒業の18歳まで新潟で育ちました。

それから名古屋近郊に4年、その後は首都圏で数回引っ越しをして、現在の住居には30年近く暮らしております。

そんな私ですが、滋賀県での記憶があまりないので、自分のふるさとはやっぱり新潟だなあ~という気持ちです。(13年しかいなかったのですが)


ということで・・・またね😅



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2022年9月23日金曜日

団塊おじさん、お彼岸に父母のお墓のことを思う

 今日は秋分の日でお彼岸の中日です。

『暑さ寒さも彼岸まで』と、昔の人はよく言ったもので、すっかり夏の名残りも薄れて、秋の気配が強くなってきました。

もう何日も昼間でもエアコンをつけなくても済んでいます。

👉電気代が助かります😅


今日は以前に市の健康診断の集団検診を予約(朝8時)していたので、雨の中クルマで会場に行ってきました。

9時には終わったので、「どこかで朝食を」とか思ったのですが、ファミレスなどはカミさんが嫌だというので、結局どこにもよらず家に帰って(いつもの)パンと牛乳とコーヒーの朝食にしました。


ところでお彼岸になるとね、亡き両親のことを思い浮かべてしまいます。

父は75歳、母は79歳でもう20年以上前に亡くなっています。




父は戦争末期にソ連の捕虜となり3年位強制労働に従事し、帰国後は故郷の滋賀県で働いていましたが、35歳くらいの年に新潟に住む戦友のつてをたどって、母と子供(わたしと妹2人)を連れて新潟県新潟市に出てました。

昭和30年(1955年)、新潟大火があった年で、わたしは5歳で妹は3歳と1歳。

父は環境が全く違う慣れない土地で働いて、骨をうずめるつもりで新潟市の霊園にお墓を立てました。

ところがいろいろあって熟年離婚👉別居になってしまった後、父は一人で滋賀県(京都にも)にもどって、滋賀県のもともと檀家であったお寺に先祖代々のお墓を新しく立てました。

75歳で亡くなった父の葬儀後、私が喪主でそのお墓に埋葬しました。


新潟に1人残った母はその後79歳で亡くなり、私が喪主で父が立てた新潟市の霊園のお墓に埋葬しました。


ということで、私の両親は滋賀県と新潟県で別々に眠っていて、息子の私でも2人の関係を理解・納得するには、なかなか難しいものがありましたが、まあ自分たちの人生だからな・・・と納得しています。


母のお墓参りはコロナ前の3年前までは2人の妹と年1回もしくは2年に1度は行っていましたが、それ以後行けていません。

父のお墓参りは、亡くなっての葬儀後2回か3回は行ったのですが、そのお寺との縁も薄いことと遠くなのもありなかなか行けていないのが実情です。


ということで、今年はもうお彼岸に行くのは無理ですが、冬になるまでの11月までには滋賀県にある父の墓参りに行こうと思っています。

かなり山の方の田舎にあるお墓なので、長い階段がありリウマチのカミさんには登るのが大変で、あと何回行けるかわかりません。


両親あるいは先祖代々のお墓が遠方にあるのは、なかなか負担が大きいものですね。


自分が亡くなってしまった場合、嫁に行った2人の妹(あるいはその子供=甥姪)にはどちらのお墓も維持するのが難しい気がします。

そのこともあり私は、カミさんにはどちらのお墓にも入らないので、散骨でもしてもらうように何気なく話しています。

もしカミさんが先に逝くような場合には、また変わってくるので子孫のいない夫婦には考えても難儀なことですね(゚Д゚;)


両親の離婚については、他人はもとより子供でもわからない複雑なこともありますが、今になると私は父親の方の非が大きいかなとは思いますが、それで一方的に父を責めることもできません。


新潟と滋賀のちょうど中間くらいのところに、この世の住まいを持っている息子のわたしが、お彼岸に思うことでした。


1冊の長編小説になるくらいの、もっと詳しい話ももちろんあるのですが、匿名のブログでもなかなか書けません・・・(m´・ω・`)m ゴメン…



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2021年7月25日日曜日

58年前の虐(いじ)め返しのはなし

 東京オリ・パラ開会式担当だったミュージシャンのO(仮名)、高校時代(だけでなく小学校の時かららしい)に障害のある同級生などを、犯罪に該当する方法で、虐めていたという件は不愉快すぎるニュースでした。


イメージ

さらに20代なってから雑誌などでこの『虐め自慢』をしており、いまだに謝罪も反省もしていないとネットなどで批判をあび、辞任に追い込まれたわけですね。

わたしはこの詳しい記事を見ていて、なぜか急に自分の中学校2年生の時の記憶がよみがえってきました。

とはいえ、こんなひどいというか残酷すぎる『虐待』のようなことでは全くないのですがね(・・;)。


1963年わたしは新潟市立の某中学校の2年生でした。

米国のケネディ大統領が11月22日(金曜)現地時間12時30分、ダラスで暗〇されるという衝撃的な事件がありました。

その事件は、日本に日本時間で翌11月23日午前5時28分に、始まったばかりのNHKテレビ宇宙中継で伝えられました。

わたしは23日の朝学校に来るまでまだ知らなかったのですが、授業を受ける中学校の、午前の国語(もしかしたら社会科?)の担当の先生には伝わっていました。


ということで、これからようやく本題なのですが、しっかりした記憶の実録なのです。

2年生になった時、クラス替えで新しく同じクラスになった、ちょっとやんちゃ且ついじめ体質のA(仮)という同級生がいました。

その頃の私は体力的な意味で❝強くもなく弱くもなく❞、とくに目立ったところはない生徒でしたが、新学期から11月まで半年、そのAとは相性が良かったのか悪かったのか、学校内だけですがわりと一緒にいる場合も多かったです。

ただ仲が良いときもあったのですが、かなり頻繁にAが私を(ほかにものに対してもやっていたようですが)身体的に悪ふざけで、いじってくるのですね。

Aが私を舐めていたというのはあると思いましたが、いじめというのでもないような、ただ一方的な悪ふざけをされる関係性の、今思うとやはりいじめか?微妙なところでした。


普通に接していたかと思うと、急に手や手首の関節技を仕掛けられたということが良くありましたが、決して頭や体を殴ったり叩いたり、相撲や柔道の投げ技という派手なことはないのでした。

笑いながら手首を思い切り甲の方に執拗に曲げられたりするには、はたから見て感じるよりけっこう痛いもので、場合によっては関節が破損するかもしれない恐怖感もあるのです。

わたしも決して弱い方ではなかったのですが、なぜか蛇とカエルの関係のように?反撃できる雰囲気がなく、いつもやられっぱなしで、痛いけど「やめろよ😅💧」とか相手に悪いこと何もしていないのに「ごめんごめん😂」と謝ったり、笑いが引くか引かない微妙なライン。

そういった関係が半年続いて、11月23日の朝の休み時間、その日もまた何の拍子かSから関節技を仕掛けられました。

その時も結構痛いのと、いつもやられていることにも非常に腹が立って、ふざけて仕掛けて油断しているAの2~3本の指を逆にとり、力を入れて逆に曲げ返したのです(`・ω・´)


いつもやられていたのでわかるのですが、やり過ぎれば指または手首の関節が外れるか、指が折れるかも知れません。

👉その時は一瞬、そうなってもいいや!という気持も少しはあり、被害者が一転加害者になってしまう暴力なるかと思うと怖いものです。(今思うと)

周りは2人がふざけて遊んでいるくらいに感じていたと思いますが、Aの痛みは相当だったようで、泣き叫ぶ寸前、「いたたたた!ごめん!悪かったごめん!(゚Д゚;)💦」⇨事故になる寸前に解放!(;´・ω・)。

この間1分くらいだったかと思いますが、今思い出しても後味の悪い思い出だったのですが、Aの指折らなくてよかった(;´・ω・)💧💧


その休み時間の『私たちのちょっとした事件』の後の授業で、国語教師からアメリカのケネディ大統領が暗〇されたことを生徒に伝えられ「こんなことあってはならない」と言わていれたのを覚えています。


それ以来Aは私を見ると目をそらすようになり、もちろん話をすることもなく、Sの記憶は殆どなくなってしまい、翌年の3年生の4月には別のクラスになりました。

ケネディ大統領はその日、銃撃という暴力で命を落とされてしまいました。

わたしはその日以来58年間、実力を伴う「けんか」というものをしたことがなく、暴力的なものから無縁の人生を歩んできて、恥ずかしながら古希も過ぎてしまいました。

犯罪的なOの所業と関連してAとの話を出して、Aにはすまないような気もするほどですが、そのクラスの同級生の名前をほとんど忘れてしまったのに、このエピソードとAの名前はしっかり憶えているのですね。

『やられた』方は半世紀以上経っても忘れないもので、Oの被害者のみなさんだけでなくいじめを受けた人は、今後何十年もいや死ぬまで忘れられないでしょう。

中学校卒業以来1度もAとは会っていませんが、いまごろどうしているかと思うことがたまにはあります。


翌年64年6月に新潟国体と新潟地震があり、秋に東京オリンピックとがあったころの出来事であります。

58年前のはなしを長文お付き合い戴きまして、ありがとうございます。


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2020年4月30日木曜日

修学旅行、会津若松飯盛山

小学校6年の修学旅行を思い出します。
何年前かなあ~?
計算して見るまでもないですが、かれこれ60年前ですわ(;´Д`)

春の鶴ヶ城風景
バカボン君さんによる写真ACからの写真

 当時昭和36年、新潟市の小学校では、修学旅行で行くところは福島県の会津若松(市及び周辺)が断トツで多かったようです。

その後も会津若松と佐渡が多かったのですが、東日本大震災以後は、福島の会津に行く学校が激減したそうで、残念ですね。

会津若松周辺は観光地が多く『歴史』の町でもあり、新潟市からはだいたい100kmほどで、バスで1泊2日の修学旅行には最適のようでした。

当時はカメラも持っていなく、記憶が薄れてきているのですが、覚えている所は、鶴ヶ城(当時は跡)、白虎隊のお墓がある飯盛山、猪苗代湖、五色沼、野口英世生家、会津磐梯山などかな?

慶応4年から明治元年にかけての戊辰戦争で、本州での最後の局面の会津戦争時、賊軍とされた会津藩(23万石)は、鶴ヶ城に籠城1カ月したものの降伏しました。

その時の政府軍:75,000、会津軍(全て含めて):9,400。

鶴ヶ城は、落ちなかったものの明治7年に廃城で取り壊され、修学旅行で行った4年後の昭和40年に寄付などで再建されています。

それから十数年後の昭和の終わりころ、家内と旅行で再び会津若松を訪れた時には、立派な天守閣のお城が建てられていて、鳥肌が立つ思いで見たのが印象的で、昨日のように思い出されます。


飯盛山は白虎隊のお墓がある所ですが、修学旅行で訪れた時、案内してくれた年配のおじさんが、「会津は日本中から攻められてね、君たちの新潟の方からも攻めてきたんだよ」と、つい最近のことのように言われてとても気になりましてね。

そのときから92年前のことですが、その言葉が歴史好きの子供になったきっかけかも知れません。
そのおじさんの言葉がなぜか60年経っても忘れられないんですね~。

確かに越後の高田藩、新発田藩が攻めた方の新政府軍(官軍)の中に入っていますが、様々な葛藤や駆け引きがあったようです。

なお河合継之助がいた❝我が❞越後長岡藩(7万4千石)は、会津戦争に先立ち、『北越戦争』で新政府軍との激戦の末破れて、多くは会津に落ち延びています(;゚Д゚)

幕末~明治にかけての日本史は、わたしにはとても興味深いものです。

今のはやり病いがおさまったら、また一度会津若松に行ってみたいと思っています。
それと出雲大社にもですが。
外国に行くことは、もうないかもしれません。


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2020年4月18日土曜日

懐かしいなあ~新潟、有名人も

今日はね、例の感染症ウィルスの話ではなく、ふるさとの話です。
あまり興味ないかもしれませんが、もし暇だったら読んでね(^^ゞ

あほうどりさんによる写真ACからの写真

ブログのタイトルの下に、『越後の花は雪椿、日本海荒海育ち』などと、きどって書いていますが、越後の国は新潟県、新潟市(現中央区)が私のふるさとです。
(荒波育ちより荒海育ちの方がピンと来ています)

新潟市は、私が高校生だったころの人口は35万人でしたが、現在は政令指定都市で80万人を数えております。

20の政令都市の中で、15番目。
ちなみに14番目が大阪府堺市で約83万人、16番目が静岡県浜松市で79万人となっております。
たしか昔は浜松市の方が人口が多かったと思います。

新潟市の海のそばで育ちました。
新潟市と言えば日本海の夕日が有名ですが、はるか遠くの佐渡ヶ島を眺めるのが好きでした。

現在は再開発などですっかり変わっていますが、鳥取砂丘ほどではないのですが、昔はきれいな海と大きな砂浜があり、小学校の時よく草野球ならぬ砂野球をしていました。

家から歩いて5分もかからない所がもう海水浴場で、泳ぎはまあまあ得意でした。
天気がよく空気が澄んだ日には佐渡ヶ島がくっきりと見え、夜は望遠鏡で見ると灯台らしき明かりも見えるほどでした。

実はわたしは根が歴史好きな少年だったのですが、天文にも興味があって、中学校になった時、薄給だったおやじにせびって買ってもらった、赤道儀式架台の望遠鏡を持っていたのです。(^^;)

高校を卒業するまでに買ってもらったのはこれだけだったですね。
一時期毎夜毎夜、ただ星を見るだけの天体観測をしていましたね。

そのついでに佐渡ヶ島もよく見ていて、(新潟市からは佐渡の家まではとても見えないのですが)、その佐渡ヶ島のくっきりした家並みが見えるような夢を最近までよく見るのでした。

この望遠鏡は高校を卒業して、名古屋近郊の工場に勤めた後、従兄弟の子供(当時小学生)に上げたんだけど、その彼は数年後地方の大学に入学したばかりの時に、寮で心筋梗塞で誰にも看取られずに亡くなっています。享年18歳。

時々その望遠鏡のことや、彼のことを思い出します。

私にとってのふるさと新潟は、今でも日本海と松林と港の町ですね。

18歳までしかいなかった新潟市ですが、年と共にますます懐かしくなってきますが、年と共に行くことが減ってきています。

新潟県も有名な政治家や芸術家、芸能人が多く出ていますが、根が歴史好きなわたしとしては、やはり歴史上の人物を上げたいと思います。
ごく一部の方々です。敬称略です。

上杉謙信 (戦国大名、武田信玄との戦い有名)
直江兼続 (上杉謙信・景勝の家臣、上杉家家老)
堀部安兵衛(赤穂浪士)
良寛さん (なぜか「さん」をつけてしまう)
河合継之助(幕末越後長岡藩家老、知られていないが凄い人だよ)
前島密  (郵便の父、貴族院議員男爵)
山本五十六(日本海軍連合艦隊司令官)
                   
多くの有名な人物が新潟県出身で誇らしいのですが、中でも新潟県人でもあまり知らない?越後の知られざらる英雄、河合継之助という人物に魅せられている今日この頃です。

司馬遼太郎の河合継之助を題材にした小説「峠」が小泉堯史監督で映画化され、2020年9月に全国ロードショーが行われるそうです。
河合継之助を役所広司が演じますが、どんなもんでしょうか?

とりとめのないところで失礼します。


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2020年3月4日水曜日

妹の義母の訃報で思うこと

私の家族
かずじ(70)、かずのカミさん(?)、妹A(68)、妹B(66)

妹2人は新潟県在住で、妹Aは旦那が3年前に68歳で永眠、子供が3人(長女が結婚し孫2人、下兄妹は独身)
妹Bは旦那健在確か75歳、子供が2人で長男が結婚し孫が2人、娘は独身。

こんな感じですがやはり少子高齢化の家族ですね。
私の甥姪(一番下でも40歳)5人の内3人が独身です。

カミさんの親族はまあたくさんいますが省略。

親世代は昨日までは、妹Bの義母を除いて、既に不帰の客になっています。

そんな妹Bから義母が亡くなったとの電話がありました。
90歳をかなり過ぎた年齢で安らかに眠られたそうです。
大往生と言っていいかと思いますが、これでカミさんも含めてもう親世代がいなくなりました。

葬儀は行うとのことですが、「こんなご時世だし兄貴は遠いので出席はいいよ」とのことでした。

どんなもんかな~? 妹Aに電話して相談と思ったのですが、電話では肺炎の話や昔話になって、話がはずみ・・・。

あまり相談にならず、結局妹Aは「〇子さん(カミさんの名前)のお母さんが亡くなった時に、2人ともお葬式に行けなかったので、兄さんは今回は行かなくてもいいと思うよ。私も肺炎が怖いので本当は行きたくないんだけど、たった1人の妹だから行くことにする」

ちなみに妹思いの妹Aは兄さんと言い、妹Bは兄貴と呼びます。

そんなことで、明日現金封筒に香典を入れて、郵便局から送ろうと思います。⇨と思ったのですが、葬儀が終わった後に届く方が良いとのことで、週末に送ることにしました。

こんな肺炎騒ぎのご時世だというのが一番の理由ですが、妹Bの家族とはあまりお付き合いがなかったので、葬儀の出席はの見合わせることにしました。

遠く離れていますが香典だけ送って、こちらで手を合わせることにいたします。                         合掌。



妹Bの義母さんは、大正の最も最後の年の生れの方でしっかりした方だった記憶があります。

以前に 明治は遠くなりにけり の題材でブログ記事を投稿したのですが、明治だけではなく、大正も遠くなりにけりですね。

あと10年もしないうちに昭和もホントに『遠くなりにけり』になりそうです。
その頃は、生きていれば80歳か・・・(;´・ω・)


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2020年2月23日日曜日

新潟

出典:ウィキペディア 、パブリックドメイン
錦絵『新潟湊之真景』安政6年
井上文昌筆(新潟県立図書館蔵)

「うちのおかんがな、旅行で行った所の県名を忘れてしもうてな」

「旅行で行った場所忘れてもうて、どーっなってんねん。それじゃおれが一緒に考えたるから、もう少し詳しく言うてみてーよ(・。・;」

「東京から新幹線で3時間もかからんと着いてな、日本海に面した県で大きい島があって、お米とお酒が美味しかった言うてたよ」

「それは新潟やないか、大きい島は佐渡島で新潟の特徴そのままやし、コメはコシヒカリ、酒は菊水と朝日酒造が俺は好きや!それでな関東甲信越ゆうて新潟は東京から近いんやから、新潟で決まりやそんなもん(; ・`д・´)」

「それがどうもわからへんねんな~、電気は東北電力や言うてた」

「それでは新潟と違うかな~、新潟県人は東京にすぐ行ける、近いのが自慢で、上信越とかはいいけど、東北地方の中に入れられるのをあまり好まんと、新潟出身のおれの友達が言うてたからなあ~。他に何か言うてなかったか? うーん」

「冬に行ったんやけど、雪以外は何にもなかったけど、甘エビとズワイガニとのどぐろ、それに佐渡沖の寒ブリが美味かった言うてた。
他には笹団子と関東で売っている米菓は殆どそこで作っているらしい」

「ほな新潟やないかい! 新潟の冬は雪しかないというのは言い過ぎやけど魚はうまいし、亀田製菓も越後製菓もブルボンも新潟の誇りやと友達が言うてたぞ」

「でもわからないねんな、昔その地域は越後と言うて、春日山城の上杉氏という大名が治めていたらしいんやて」

「それなら新潟とは違うかな~? 上杉氏は陸奥会津藩120万石(福島県)⇨出羽米沢藩30万石(山形県)で有名やからなあ~。
とくに江戸時代中期の米沢藩9代藩主・上杉鷹山は名君でな、おれも尊敬しているんよ。他に何か特徴を言うてなかったかなあ?」

「北は山形、南は富山に接していて南北に330kmもあるんやて、東京から名古屋に行く位の距離やそうや。それにふつうに『筋子』好きが多くて『かきのもと』という食用菊も好きで、『のっぺ』もよく食べるらしいし、日本一のスーパー言うたら『原信』と思っているらしく、何より郷土愛がすごくて若いときに東京に出ても、そのうちUターンしてくる人が多いそうや」

「それは立派な新潟の特徴や!絶対に新潟で決まりやそんなもん。原信はヨー〇ドーにもイ〇ンにも負けんスーパーやと俺も睨んでいるのよ。のっぺは旨いで」

「でもな、おかんが言うには、北海道旅行に行ったような気がすると言ってるんや」

「絶対にちゃうやろ! ええかげんにせい!ありがとうございました」

ミルクボーイ漫才でした。




新潟県出身のわたしは、古希を過ぎてときどき故郷がとても懐かしくなることがあります。
いくら交通が便利になっても、ふるさとは遠くにありて思うものですね。

海外旅行はしなくても、今年は新潟に1度帰りたいですね。
それに鳥取と島根にも行きたい。

肺炎騒ぎ、早く終わってくれんかな?
皆さん、春でも出かけるなら新潟はいいですよ。
チューリップ満開でね(o^―^o)ニコ

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2018年8月9日木曜日

江戸と越後のとりとめのないはなし

台風13号は、今朝7時現在、関東地方に接近中で、銚子市の北東30Kmにいて、北東方向に進んでいます。

かろうじて、東京を直撃(上陸)することなく、関東沿岸に沿って北上し、本州から離れつつあります。

今のところ、大きな被害は伝わってきていないようですが、これから東北地方に接近するので、そちらの方は、引き続きお気を付けください。
「被害が出ないといいな」と願っております。
しかしまた台風14号も発生しているので、これもまた要注意ですね。

この台風13号の動きを見て、いろいろ思ったことがありました。
他愛のない事ですが・・・。

関東地方は今までのデータでも、台風の上陸数はかなり少なく、とりわけ東京は、台風に関してはかなり運がいい都市のようです。

気象庁のホームページで、上陸数の多い都道府県を見てみました。
それによると、

1位鹿児島41個、2位高知26、3位和歌山23、4位静岡20、5位長崎17、 6位宮崎・愛知12、8位熊本・千葉、10位北海道
(気象庁出典、統計期間:1951~2018年第5号迄。太字は上陸数です)

11位以下は、数字がないのですが、別の資料(データ)では東京はゼロ、ちなみに新潟もゼロになっています。

地理的、気象的な要因があるのですが、それにしても、西日本や東海地方に比べると歴然の差があります。

これを見ると、徳川家康が江戸に幕府を開いてから400余年、江戸も東京も台風を始めとした、自然災害が少なかったことが、発展した一因かも知れません。


ただ関東大震災と、米軍による東京大空襲で壊滅的被害はありました。
もう1つ、多くあった江戸の火事は、また別の判断になると思います。

新潟県も、地震はありましたが、他は自然災害は少ないようで、住みやすいところだと思います。
昔は信濃川の氾濫もあったのですが、分水ができてから危険性はかなり回避されているようです。
大雪は災害とも言えますが、恵みでもあります。

異常気象が続く世の中なので、未来は不透明ではありますが。

気象情報などでは、以前は「関東甲信越」地方は・・・、などと言ったものですが、最近は「関東甲信」と言う場合が多いように感じて、「おーい!はどうなったんだい!」と新潟県出身の私は、テレビに向かって1人突っ込んでいます。

越後の新潟県は、関東でもなく、信越地方の言葉は新潟では一般的ですが、甲信越というのも広がりすぎで最近は微妙?で、中部地方に一応入っているようですが、中心の愛知からはかなり場所がはずれていて、これも微妙です。

北陸地方の中に入っているようでいなくて、だいたい新潟県を北陸とはあまり言わず、もちろん東北でもないです(;´・ω・)
新潟県の電力会社は東北電力なのですが・・・。

北陸3県は、福井県・石川県・富山県で、新潟を含めて北陸4県とも、あまり言わないようです。
また越前(福井県)・越中(富山県)・越後と、昔の行政区分では言ったのですが、同じの字がついていても、かなり風土は違います。

こんな、私の原点である愛する新潟県は、どこにも所属しているような、いないようなあいまいさですが、これがまた発展の原動力だったかも知れません。

もちろん故田中角栄氏の功績もあったと思いますが、新潟市は日本海側では人口80万人を超える、唯一の政令指定都市で、どこにも属さなくても独自の発展を遂げています。

明治時代には、東京より農業県の新潟の方が人口が多かった時代もありました。
東海道の次にいち早く新幹線ができて、若いものがみんな東京に出てしまって、新潟の人口は減るかと思ったが、そうでもなく、新幹線のおかげでいつでも東京に行けるというので、逆に残ったものも多かったのです。

私は18歳で新潟を離れて50年過ぎてしまいましたが、やはりふるさと新潟は心の中に、いつもありますね。
そして新潟が発展することは、我がことのようにうれしいです。

1年に1度くらい新潟市に行くのですが、行くたびに街がどんどん広がっていき、少年時代を過ごした新潟のイメージは全くなくなりましたが、日本海はむかしのままですね。(^-^;

今日の投稿は、個人の感想です(;´・ω・)

参照:気象庁:各種データ・資料 より。
 
今日も読んでいただきましてありがとうございます。

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2018年5月4日金曜日

昭和40年代初めの思い出

新潟市は太平洋戦争の間、日本海航路の拠点港だった、新潟港封鎖のための機雷投下等以外は、都市の規模の割には米軍による空襲があまりなかった、数少ない都市だといわれています。

50Kmほど離れた県第二の都市の長岡市は、1945年8月1日の空襲で市街地の80%が消失していたにも関わらずです。

広島・長崎に新型爆弾(原爆)が投下された後、今まで空襲が殆どなかったので、新潟市民の間に「長崎の次は新潟だ!」という恐怖が広がりました。

当時の畠田新潟県知事は終戦の5日前の1945年8月10日付け・11日配布の、17万人新潟市民への、事実上の強制疎開を命ずる知事布告を出し、13日までには、殆どの市民が疎開し、数日間無人の町になったそうです。


画像:総務省ホームページより 知事布告
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/shinetsu_01.html

8月15日に我が国は無条件降伏し、終戦を迎えたので、新潟市民にとっては最悪の事態は免れたのですが、あと数日遅ければ本当に新型爆弾が投下されていたかも知れません。

実際に新潟市は米軍の投下の目標にはなっていたと言われています。

 スミマセン、ここまでは長い前置きでした。
      <m(__)m>

昭和40年に中学校を卒業して高校に入学しました。
その高校は、上の前置きにも関連しますが、戦前に建てられた木造校舎で、空襲を免れた古風ではあるが、立派な建物でした。

その学校の門をくぐって、本当に高校生になったんだと実感しました。
そこで昭和43年まで、3年間の高校生活を送りました。

高校に入って思ったことは、留年して同じクラスの同級生になった年上の者が2人いて、なぜか「高校と言うのは大人の世界だな~、中学校とは違うな~」と思ったものでした。

昨日のブログでも書いたのですが、学校では普通の高校生活を送っていたのですが、校外の私生活では、Kというちょっと変わった1人だけを除いて、誰とも付き合いませんでした。

Kは2年生の時までは数学があまり得意ではなく、と言うより全然できなくて、私が微分積分なども教えてやってたものですが、3年になったら急に数学に目覚め、私から見たら天才的な数学少年になりました。

Kとだけは何故か気が合い、家を行き来して、よく遊び、よく学びました。
学校の帰りに新潟の町で遊び、お金がなかったので、よく普通の食堂の半額位の、新潟市役所の地下の?食堂で飯を食いました。
これが安くて美味かったですね。 
当時市役所のラーメンが3~40円位だったように記憶しています。

卒業後、Kの父親は私の親父と同じく工場の労働者で、裕福でなかったため、大学進学を諦めて、1度地元の企業に就職しました。

ところが1週間の研修が終わった時に、突然会社を辞め、1年自宅浪人して、翌年某国立大学の理学部数学科に上位の成績で入りました。

後日なぜ会社を辞めたのか聞いたのですが、彼曰く、
「研修が終わった時に面接があり、夜間の大学に行きたい旨伝えたのだが、うちではそのような制度はないので、大学に行きたければ会社を辞めるしかないと言われ、あっそうですかと、言ってその場で辞めてきた」
と言っていました。

大学には奨学金とアルバイトで、自力で行ったと言っていました。
Kは大学卒業後、最大手の損害保険会社に入社しました。

私が高卒後4年間勤めて、大学に行ったのは、Kの影響もありました。
4年ではなく、2年位で決断すれば良かったかなとも思っているのですが。

今日も読んでいただきましてありがとうございます。

2018年5月3日木曜日

昭和30年代後半~の思い出

昨日の続きです。

当時住んでいた家は、昭和31年に、親父が31歳で(私が小学校1年生時)新潟市の中心からやや遠い場所に、2Kの小さい家を建売で買ったものです。

この家は、一生懸命働いて建てた亡き親父には、失礼で申し訳ないのですが、安普請で小さな家だったので、中学校に入るころから、私のコンプレックスの原因になってきました。

経済的には、貧乏という訳ではなく、裕福でもありませんでした。
「子供3人を高校までは行かせられるが、大学には無理」というくらいの当時(昭和30年代)の平均的な家庭ですか?

しかし中学校に入った私は、性格がだんだん変わってきて、コンプレックス・劣等感の強い、引っ込み思案の性格になってきました。

学校ではみんなと一緒に付き合うのですが、家を見られる・来られるのが恥ずかしくて嫌で、誰も絶対に連れてきませんでした。
外で付き合うこともしなくなりました。
今になって思えば、自意識過剰・劣等感の塊だったと思います。

高校に入っても同じで、学校以外では誰とも殆ど付き合わなくなりました。
ただ1人、同級生のO君とは気が合い3年間付き合いがあったのですが。
このコンプレックスは誰も解らなかったと思います。

こんな性格だったのですが、引きこもりにはなりませんでした。
大学は働きながら行けるので、高校卒業したら、とにかく家を出ようとずっと思っていました。

中3の時に1部屋増築したのですが、それでも5人で暮らすのは狭いし、この家にいるのは嫌で自分が家を出ようと・・・。

新潟に居て、奨学金を受けながら、新潟大学を受けたら行けたかも知れなかったな~と思ったことがあったのですが、後の祭りで何にもならないですね(;´・ω・)
「たら」はだめです、人生の分岐点の1つでした。

今思うと当時、50年以上前の話ですが、なんでそこまで思い詰めていたのか不思議です。
正直な気持ちを綴りました。
高校3年生の時の判断が、今の自分に続いています。

高校卒業して、名古屋近郊の1部上場の会社の工場に勤めて、新潟の家に帰るのは1~2年に1回位になりました。

その家のあった場所は、再開発になり、今では全く別世界の風景になっています。
町名だけは残っていますが、面影はありません。

今日も読んでいただきましてありがとうございます。

つづく。

2018年5月2日水曜日

昭和30年代、子どもの頃の思い出

2日前のブログに、滋賀県のことを書いたのですが、私が育ったのは、辞職を表明した米山県知事がおられた新潟県です。
高校卒業の18歳まで新潟県で暮らしました。

小学校時代は、かなり活発な少年で、行動範囲は広かったです。
またよく近くのグラウンドで、近所の小学生と三角ベース草野球をやっていました。
グラウンドが狭かったのと、人数が多くなかったので、いつも2塁の無い(懐かしい)三角ベースでした。

サウスポーでピッチャーをやることが多く、自分で言うのも何ですが、守備もなかなかうまかったり、それなりに楽しく元気な小学生の草野球でした。(^-^;

草野球ばかりやっていて、勉強はあまりできず、成績は中の中くらいでした。(;´・ω・)

そのグラウンドの近くに、K商店と言う駄菓子屋がありました。
草野球のあと、暗くなる前によく寄りました。
10円くらいの駄菓子の買い物ですが、なぜか50銭硬貨がまだ使えたのを覚えています。

店主のおじさんが店で小さいサルを飼っていて、ニホンザルではなさそうで、おじさんに聞いたら、「このサルはカニクイザルというんだ」と教えてくれました。

自分には珍しく、可愛いサルで、蟹(かに)は食べなかったのですが、ブドウをたくさん頬張って、頬っぺたの内側がぱんぱんになるほど膨らんでいて、眼がクリクリしていたのを思い出しました。

その店にいくと、よくそのカニクイザルと遊んでいました。
他愛のない思い出です。
カニクイザルは、現在はあまり見ないのですが、日本では特定外来生物に指定されているサルのようです。

中学校に入ると、近所の子供と全く遊ばなくなり、なぜか勉強ばかりするようになりました。
成績は急上昇したのですが、何のために勉強するのか意義が見いだせなく、且つ劣等感のかたまりのような、悩み多き中途半端な3年間でした。

この中学時代のコンプレックスと言うか、劣等感は高校卒業するまで続き、それが自分の人生を決めたような気がします。

明日につづく。

今日も読んでいただきましてありがとうございます。

2018年2月17日土曜日

越後の龍 上杉謙信

新潟県出身のものとしては、歴史に人物あり、のカテゴリーの最初に新潟(越後)出身の英雄、「越後の龍」「毘沙門天の化身」と呼ばれた、上杉謙信公の名前を上げたいと思います。

この記事の3行目に、上杉謙信と敬称をつけましたが、歴史上の人物なので、敬称は次の行からと次回からの人物にもつけません。

上杉謙信は、越後守護代長尾為景という武将の末子で、戦乱の最中の
1530年(享禄3年)今の上越市にある春日山城で出生
1543年(天文12年)13歳で元服して、長尾景虎と名乗る
1548年(天文17年)18歳で長尾家を相続。守護代となる
1553年(天文22年)23歳、信玄と対決第一回川中島の戦い
1561年(永禄4年)31歳、山内上杉家を相続、名を政虎、
            関東管領就任、次に輝虎を名乗る、
            最激戦の第4回川中島の戦い
1564年(永禄7年)34歳、第5回川中島の戦い
1570年(元亀元年)40歳、北条氏と和睦、法号謙信を称す
1571年(元亀2年)41歳、北条氏と同盟破棄、信玄と対陣
1573年(天正元年)43歳、武田信玄病没、越中を平定
1576年(天正4年)46歳、武田・北条氏と和睦
1578年(天正6年)48歳、関東大遠征直前、脳溢血で逝去

上杉謙信の一生を簡単な年表形式で書きましたが、これでは簡単すぎて
よくわからないと思います(;´・ω・)

各上杉家同士で争い、弱体化していた上杉家督を、長尾姓でありながら継ぎ、武田信玄と10年以上も闘いながら、関東にも17回大軍で出撃し、越中・能登まで平定した上杉謙信、どんな人物だったのだろう?

強い武将といえども、京の都や鎌倉あるいは尾張、大阪といった、当時の文化圏から遥か離れていた地方の大名なので、資料が多くないのもあると思うのですが、不明な点も多く、また諸説あるようです。

一般人の私には、一次資料に触れる機会もなく、有ったとしても読み解く力もないので、ウイキペディアや、ネット、研究本に頼るしかない。

小説や映画、テレビドラマも参考になるが、フィクションも多く含まれており注意ですが、その方が面白いのも正直なところです。

私の思う上杉謙信の人物像としては、

権威を重んじ敬意し、関東管領職にこだわり、かつ利用した。
義理堅く、約束事を守り、大義名分を重んじた。
戦場では勇猛果敢、正々堂々、ほぼ無敗。
家臣には寛容であったが、反乱も多かった。
自ら毘沙門天の化身と称し、質素、ストイック、女性の影が少ない。
有名な武将なのに、小説や映画・ドラマでは、意外と主役が少なく、主役の武将の敵役の方が多い。

謙信の越後統一後は、信濃・関東・越中などが戦場になり、越後の田畑は荒れることがなく、生産力は上がり、民は潤ったので、強い武将だったというだけでなく、現在に至るまで越後(新潟県)では人望が厚いと思います。

ただ富山県などの近県では、上杉謙信を嫌っている人が多いようです。
過酷な、神も仏もない非道な侵略者だった、という認識でしょう。
先祖が侵略されて、焼き討ち等にあったのだからな・・・。

武田信玄も、昔侵略された長野県の人はどう思っているのかな?
当然あまりいい印象では無いかもしれません。

私は甲斐の武田信玄も上杉謙信もどちらも好きな武将、歴史の人物です。嫌いな人には申し訳ないですが(;´・ω・)💦

越後(新潟県)は上越(上越市など)中越(長岡市など)下越(新潟市など)があり、南北に長い「国」です。

上杉謙信の居城は上越で、私の育った下越とは、距離も離れていて、更に新潟市は城下町ではないので、同じ「国」ですがどちらかと言うと、下越人の上杉謙信への思いは、やや抑えめかもしれません。

歴史に興味のある方は下記も参考になると思います。

上杉謙信 ウィキペディア
上杉謙信公ゆかりの地めぐり 上越観光ナビ

自分で書いていて物足りない気がしますが、拙い文をながながと書いていても飽きられますので、この辺にします。

今日も読んでいただきましてありがとうございます。

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2016年8月11日木曜日

昭和39年で子供を卒業?長かった昭和30年代

昭和30年代 Ⅴ


こんにちは、団塊定年おじさんです。

長かった昭和30年代でした。
世の中が大きく変わった年代でもありました。
もちろん、個人的にもです。

始めの昭和30年は、まだ、戦後という言葉がしっかり残っていた年でした。

ベビーブーマーの我々は、小学校の教室が足りなくて、二部授業ということがありました。
児童の半分づつ、午前と午後、授業を受けることです。
あまりに子供が多すぎ、街や学校は空襲で焼けた後遺症です。
傷痍軍人が街にたくさんいました。
空き地がたくさんあった。
社会全般がまだ貧しかったですね。

出生数を調べてみると、
昭和22年  267万人
昭和23年  268万人
昭和24年  269万人 (昭和47年以前は沖縄県を含まず、万人未満切り捨て)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
平成26年  100万人

現在の2.6倍の数ですね。(;´・ω・)

終わりの年の昭和39年は、なんと東京オリンピックです!
日本の力はすごいですね?

「10年ひと昔」と、よくいわれたものでした。
10年は、社会が大きく変わるのに十分な年月ですね(`・ω・´)
  
昭和37年から、中学生でした。
中学生の自分の記憶は、

校庭の桜が美しかったこと。

1~2年までは、よくけんかをした。

教師に怒られて、頭をぐりぐりやられたこと。

試験の成績を学年の1番から末番まで廊下に貼りだされるので、勉強を急に一生懸命やるようになった。
でも大学に行ける見込みがなかったので、そこそこだった。

町内の生徒とだんだん遊ばなくなった。草野球もしなくなった。

おとなしい目立たない中学生になった?

映画にもあまり行かなくなった。

日本海の海岸で、海を見るのが好きな少年になったこと。


あっという間に中学時代が過ぎてしまった、~様な (-_-;)

今日はこの辺で失礼します。

読んでいただきましてありがとうございます。

また明日。

今日も読んでいただきましてありがとうございます。

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2016年8月10日水曜日

昭和30年代後半は中学生でした

昭和30年代 Ⅳ

こんにちは、団塊定年おじさんです。

こんな、きわめて個人的な私の昔のことを、読んでいただいている、あなた、ありがとうございます。

まあ、これがブログというもの??なので、
こんなおじさんもいるのか、まっいっか? 
と読み飛ばしていただければ幸いです。(;´・ω・)

少年時代の日本海地方のことを、書いてきましたが、やはり日本海、北陸といえば雪ですね?
確かに今から50年前は、今よりもっと雪が降っていたと思いますが、雪で困った記憶はあまりありません。
海に面している所はあまり降らないのが理由の一つだと思います。

それでも20~30センチ位積もるのは、よくあることでしたが。
唯一強く記憶に残るのが、いわゆる38豪雪と呼ばれる、昭和38年(1963年)1月の全国的な豪雪のときでした。

このときの記憶ははっきりあります(;´・ω・)
確かにたくさん降りました。中学1年の自分にも、
雪が降って喜べなかったでしたね。

中学校と高校は冬は石炭ストーブがありました。
エアコンはまだありません。
気温が10度以下に下がったら、火をつけると、決まっていたようです?
いわゆるだるまストーブです。形はいろいろでしたが。

現在では、石炭ストーブはほとんど、ないでしょうね。
薪ストーブはありますが。
若い人では、石炭ってなーに? という人も多いのでしょう。

昭和38年11月、日米間のテレビ衛星中継が始まり、その実験放送でケネディ大統領がなくなったニュースが飛び込んできました。
現在でも時々目にする映像ですね。

アメリカ社会の闇?世界情勢の複雑さ?
テレビのすごさ、将来性を日本中にわからせた事件でした。と思います。

このころから、日本の高度成長が本格的に始まりました。
この高度成長は、世界の流れと、田中角栄の政策の結果なのでしょうか?

でもその頃の私はまだガキで、世の中のことが全くよくわかっていませんでした(;´・ω・)💦

今日はこの辺で失礼します。


今日も読んでいただきましてありがとうございます。

2016年8月9日火曜日

昭和30年代の半ば、テレビや遊び

昭和30年代 Ⅲ

こんにちは、団塊定年おじさんです。

昭和30年代の中ごろから、テレビが一般家庭にも入り、現在につづくテレビの時代が始まりました。
私は映画も好きで、やはりよく1人や、友達と見に行きました。

3本立てというのが多かったです。
封切館でなく、場末によくあった映画館で、東映や松竹の系列館です。子供60円くらいでした。
行く回数はテレビと反比例で、だんだんと減ってきました。

昭和35年、小学校5年生の時に父親が無理をして、14インチの白黒テレビを買ってくれました。
当時5~6万円位はしたようです。割と早く買った方だったのかな?
当時の父親は、40歳過ぎの働き盛りで、給料は、休みなく働いて3万円くらい?

昭和34年ころから、徐々に安くなってきたようです。
その前、昭和30年頃まで、1インチ1万円といわれて、14インチ白黒だと14万円の価格だったようです。車を買う感覚ですね。
公務員の初任給が昭和28年で8,000円位、34年で1万円位という時代です。

それでも、昭和35年の5~6万円を、現在に換算して比較すると、40歳働き盛りの労働者の2か月分の給料分、60万円前後のものを買う感覚ですか?。

すごく高い買い物だったようですね。
まだ、電気製品は大量生産が始まる前で、高級品でした。
でも、高い電気製品が飛ぶように売れる始まりの時代でした。
国民には成長の予感があり、未来に希望を持っていた時代でしたので皆さん子供のために無理しても買ったのかな。(;^ω^)

周りの家が、次々にテレビを買いだしたころです。
その前は、食堂などのテレビが置いてある店で、たくさんの子供が自分も含めて、見させてもらっていました。「番頭はんと丁稚どん」の大村崑が人気でした。CMは三洋電機とダイハツミゼット。
テレビでもよく、お笑い番組を見てましたよ。

吉本新喜劇、松竹新喜劇、上方漫才、NHK教育テレビの教育放送、・・・・・・。こんな記憶が最も強いです。
大村崑、藤山寛美、伴淳、花菱あちゃこ、横山えんたつ、CMは明治金鶏カレー。

外の遊びは、あいかわらず草野球と冒険?
当時の住んでいた日本海の町はまだ何にもなく?、田んぼが広がっていました。

そこに、友達同士でザリガニをよく取りに行きました。
べつに食べるのではないですが、取ったザリガニを道路にまいて、車に轢かせて遊んでいた。
今考えるとひどいことをしたな~? ザリガニくんゴメンなさい!

そのほかは、昆虫採集。バスで結構遠くまで行きました。

当時は、畑と林と草むらと砂地、昆虫採取にうってつけの場所がたくさんあり、よく行きました。

地元の農家の人が、私たちガキどもが町の方から来たと知ったら、「へー!そんな遠くから来たの」と言われました。

帰りにみんなで、お店でコロッケを買って食べました。1個5円。今でいうファーストフードですね?
バスも市内子供は5円でしたよ 。(o^―^o)ニコ
1日、50円もあれば楽しく遊べました。

今思うと、父親は、日曜もなく働いていたようで、遊びに連れて行ってもらったりしたことは、一度も記憶がないですね。
また、外食に連れて行ってもらったことも、殆ど無かったですね。
よく働いた親でしたよ。このころの親は、そういう人が多かった?

昭和30年代後半はつぎに書きます (;´・ω・)

今日はこの辺で失礼します。

少年時代は、昭和30年から始まった

昭和30年代 Ⅱ

こんにちは、団塊定年おじさんです。

昭和も遠くなり、さらに昭和30年代は、はるか遠くになりました。
平成になってからでも、もう28年です。

「明治は遠くなりにけり」 という言葉があります。
愛媛県出身の俳人、中村草田男が、昭和6年、30歳位の時に、自分が1年ほど通った小学校を訪れたときに詠んだ句の一部だそうです。

昭和6年は、明治の終わりの年から20年経たころですね?
大正、昭和と時代の流れが早く、明治から20年で、 
明治は遠くなった  と、いろいろな思いを感じられて読まれたのだと思います。
この時代は激動の時代だったのですね。

そうすると、昭和の終わりの頃からの28年という年月もやはり、いろいろな大きな変化があった。
充分 昭和も遠くなりにけり と思ってもよさそうです。

私の昭和30年代前半の思い出の記憶 キーワード


映画館 (映画)

 このころは、娯楽が少なかったので、映画館が町のあちこち  
にあり、どこも客が入っていました。
私も映画が大好きで、小学校1年の時から、よく見ていました。

今でも記憶に残る映画は、紅孔雀 二等兵物語 日本誕生 
二十四の瞳 たくさんの東映の時代劇 
当時子供は、50円~60円で入れました。
親に連れて行ってもらった記憶はないので、一人か、友達と見に行ってました。特に東映には、月2回位行ったときもあります
 

海と海岸

日本海は自分達?の海でした。
日本海は太平洋の海より地味ですが、泳いだり、遊んだり・・・・・。水泳はわりと得意でした (・。・;
釣りもやりました。
海岸の砂浜で(砂)野球もしました。(;´・ω・)

ラジオ

テレビを、親が買ってくれるまで、ラジオは友達でした。よくお笑い番組を聞いていましたよ。落語や吉本の番組。NHK第二放送もよく聞きました。子供向けの番組が多かったです。
それに深夜放送。これは、後半まで続きます。

草野球
 スポーツといえば軟式の草野球でした。ほとんど毎日、放課後や日曜にやっていました。私は主にピッチャーでした (;^ω^)
他のスポーツは何もやりませんでした。野球をやるところはたくさんあったよ。海岸でもやりました。

このような小学生でしたよ。

読んでいただきましてありがとうございます。

今日はこの辺で失礼します。
 それではまた。