何年前かなあ~?
計算して見るまでもないですが、かれこれ60年前ですわ(;´Д`)
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春の鶴ヶ城風景 |
当時昭和36年、新潟市の小学校では、修学旅行で行くところは福島県の会津若松(市及び周辺)が断トツで多かったようです。
その後も会津若松と佐渡が多かったのですが、東日本大震災以後は、福島の会津に行く学校が激減したそうで、残念ですね。
会津若松周辺は観光地が多く『歴史』の町でもあり、新潟市からはだいたい100kmほどで、バスで1泊2日の修学旅行には最適のようでした。
当時はカメラも持っていなく、記憶が薄れてきているのですが、覚えている所は、鶴ヶ城(当時は跡)、白虎隊のお墓がある飯盛山、猪苗代湖、五色沼、野口英世生家、会津磐梯山などかな?
慶応4年から明治元年にかけての戊辰戦争で、本州での最後の局面の会津戦争時、賊軍とされた会津藩(23万石)は、鶴ヶ城に籠城1カ月したものの降伏しました。
その時の政府軍:75,000、会津軍(全て含めて):9,400。
鶴ヶ城は、落ちなかったものの明治7年に廃城で取り壊され、修学旅行で行った4年後の昭和40年に寄付などで再建されています。
それから十数年後の昭和の終わりころ、家内と旅行で再び会津若松を訪れた時には、立派な天守閣のお城が建てられていて、鳥肌が立つ思いで見たのが印象的で、昨日のように思い出されます。
飯盛山は白虎隊のお墓がある所ですが、修学旅行で訪れた時、案内してくれた年配のおじさんが、「会津は日本中から攻められてね、君たちの新潟の方からも攻めてきたんだよ」と、つい最近のことのように言われてとても気になりましてね。
そのときから92年前のことですが、その言葉が歴史好きの子供になったきっかけかも知れません。
そのおじさんの言葉がなぜか60年経っても忘れられないんですね~。
確かに越後の高田藩、新発田藩が攻めた方の新政府軍(官軍)の中に入っていますが、様々な葛藤や駆け引きがあったようです。
なお河合継之助がいた❝我が❞越後長岡藩(7万4千石)は、会津戦争に先立ち、『北越戦争』で新政府軍との激戦の末破れて、多くは会津に落ち延びています(;゚Д゚)
幕末~明治にかけての日本史は、わたしにはとても興味深いものです。
今のはやり病いがおさまったら、また一度会津若松に行ってみたいと思っています。
それと出雲大社にもですが。
外国に行くことは、もうないかもしれません。
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