2018年8月27日月曜日

かず吉の平成、定年リタイアまで

今思うと、1989年(昭和64年・平成元年)にはバブル崩壊の兆候はところどころに現れていたようです。



そしてかず吉が、明らかに好景気は終わった(バブルが崩壊した)と認識したのは、1992年(平成4年)頃だったと言っております。

只野かず吉は大学を卒業したのち、入社した会社が今で言う 「ブラック企業」と気づいて、半年で辞めた後、失敗した脱サラをはさんで、会社を変わったものの、平成3年時点では家も建てて、安定していました。( 個人の感想です)

ところがその会社は、バブル崩壊と関係あったのかなかったのか、分かりませんが、傾いてしまい事実上の廃業になりました。

翌平成4年、もう40を過ぎていた只野かず吉は、必死に就職活動を行い、地元の30人足らずの、とある販売会社(昔でいうところの卸問屋)に正社員で再々就職できました。

その会社では、社長一族を除くとかず吉より年上は2人だけと言う会社で、高校を出たばかりの18歳でも、皆先輩でした。

数年後にその年上の社員の1人は当時の60歳定年で辞め、もう1人は会社の方針に合わないため、というよりコンピュータを導入していく会社について行けずにストレスがたまり)退職してしまいました。

そのため、かず吉は定年リタイアするまで、ずっと最年長でしたが、正社員と言えども、下っ端の最年長で、なかなかストレスのたまる会社員生活でしした。

しかしこの会社に入るまでの、自分の不甲斐無い人生を反省し、65歳まではどんな苦労も屈辱も耐え抜き、会社人生と仕事をまっとうすると決意したのでありました。

仕事は仕入れ、在庫管理、受注・発注、納品書・請求書発行など、中小零細企業ならではの、何でも屋の業務でした。
この仕事を他にやる者がいなくて、かず吉は23年ほど毎日ストレスもありつつ、60歳を迎えて、更に65歳まで続けました。

零細企業なので、形ばかりの就業規則はあるのですが、60歳で定年になった先輩の後は、かず吉が65歳までいた社員の1号となりました。




実際60歳で定年で、65歳までは嘱託だったのか、65歳が定年だったのか未だに良く分からないのですが、60歳から給料が3分の2になり、退職金は出ずに、65歳で「お気持ち」ほどの退職金をもらいました。

それでも65歳まで厚生年金を掛けられて、60歳時点より少しは上乗せできたので、只野かず吉はまあ満足しています。

65歳になった時、社長から、「もし只野さんが良ければ、今後1年毎の契約のパートで、勤めていただいてもいいのですが」と言っていただいたのですが、これは丁重にお断りしたと、只野かず吉は言っています。

勤めれば、年金の他にいくらかの収入はあるのですが、この先のストレスはなかなか大変なものだと、かず吉は感じて断ったものでした。

今日も読んでいただきましてありがとうございます。

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