2018年8月16日木曜日

終戦の日に父親をしのんで

8月15日は1945年(昭和20年)の終戦の記念の日です。

毎年この日になると、個人的なことですが父親のことがしのばれます。




私の父はもう25年前に75歳(満年齢では74歳)で、病気で亡くなりました。
その病気の原因は、元をたどると、昭和20年から数年の、父の置かれた環境にあるのだと、私は確信しています。

そしてあと5年ほどで、私も父と同じ年齢になります。
父との年齢差が30歳ですので、5年後の、亡くなって30年目に、私が父の年齢になるのですね。
あっという間です。

父は1945年(昭和20年)当時は、 大日本帝国陸軍 の兵隊でした。
兵隊だったときの事、その後ソ連軍に抑留され強制労働に従事したことについては、父は自分からは殆ど話さなかったし、私も詳しく聞かなかったたので、残念ながら良く分かっていません。

今になればもっと聞いておけば良かったかな? とも思うのですが、18歳で実家を出たので、話す機会があまりなかったと言うのが、実際のところです。

断片的に聞いたことと、写真などが少し残っているので、それに基づいて、父への備忘録として簡単に書いてみます。

父は昭和18年(23歳頃)、2度目?の召集で陸軍に入隊し、 朝鮮軍 (日本軍) (ウィキペディア:のちに第17方面軍になり、最終的に関東軍隷下になり、終戦とともに解体)に送られたそうです。

尚、うえのウィキペディアを参照していただくと分かりますが、「朝鮮軍」と言っても、大日本帝国陸軍の方面軍で、日本人による軍隊です。
当時日本に併合されていた朝鮮の平城(ソウル)に編成地があり、ソ連軍にも備えていたようです。

当時の中国の「満州」を拠点とした関東軍は有名ですが、朝鮮半島にもたくさんの帝国陸軍の軍人がいたということですね。

父は1945年敗戦当時は、朝鮮半島の北部の部隊にいて、相互の不可侵を約した「日ソ中立条約」があったにも関わらず、対日参戦したソ連軍に攻められ、あっという間に捕虜となってしまいました。
そしていわゆるシベリア抑留者となりました。

抑留された場所は、ソ連シベリア中央部の ノヴォシビルスク市 の郊外と聞きました。
この市は、現在シベリア最大の都市で、人口160万人を超えます。

「一般財団法人 全国強制抑留者協会」と言う財団のホームページを見ると、現地で亡くなられた方の慰霊碑が建てられているそうです。

そこで1948年までの約3年間、劣悪な労働条件の下で、森林や炭鉱で強制労働に従事させられたということです。

単なる捕虜ではない、そこでの厳しい抑留生活は体験した人にしか理解できないものだと思います。

イメージ

戦後良く知られたように、シベリア抑留は非常に過酷で、日本に帰られず現地で亡くなった戦友がたくさんおられたそうです。

父は何とか生き延びて、戦後1948年(昭和23年)に引揚船で日本(の京都府舞鶴港)に引き揚げることができ、翌年私が生まれました。(;´・ω・)

父が舞鶴港にたどり着かなかったら、私はいないので、人間の運命の不思議を感じるものです。
今はなき父ですが、その存在は確かなものでした。
その証拠が私ですが・・・。(;´・ω・)

抑留地は夏は短いが暑くて蚊が多く、冬はマイナス20℃以下の極寒の地だったそうです。

栄養不足の中、父はマラリアと軽い結核に感染し、特にマラリアは、日本に帰ってからもいい薬がなくてなかなか治らず、私も子供ながら病気の後遺症に苦しんでいたのを思い出します。

先ほども書きましたが、父はこの間のことも殆ど話しませんでした。
口には言わなくてもよほどの辛い経験だったと察します。

私ももっと調べようともしなかったもので、それでこれ以上の詳しいことは今は分かりません。

しかし社会の片隅の定年おじさんの父親も、日本の歴史の中で生きてきたんだなあ、翻弄されたんだなあと、思いつつ父を偲んでおります。

ノヴォシビルスクというところにも、一度行ってみたいという気持がありますが、私の海外旅行先の優先順位としては低いので、まあ本や映像で鑑賞するだけになるかなと思います。

今日も読んでいただきましてありがとうございます。

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