2018年6月26日火曜日

新田義貞公、非運の名武将(2)

このタイトルにしたのは、新田義貞は信義に厚く、裏切られたとしても人を裏切らない、兄弟の仲が良く、人望もありかつ勇猛果敢な武将として、希な人物というイメージ(個人の感想です。)が強いからです。 

反面、天下を争った強大な戦国大名や、実際の天下人には共通の「非情さ」があったと思うのですが、義貞は全く正反対の性格かと思います。

さらに地方の中小豪族に育ち、幕府の要職もなく、情報収集や駆け引きにはやや疎かったのが、その後の悲運の原因かと思います。

義貞の性格は、3月に書いた 中世の九州を駆けた名将、菊池武光  や平清盛などの平氏と共通するものがあると思います
悲運ということでは、源義経にも共通するようですが、兄弟仲良くというところが、やや難しいところです。

新田義貞の系図を、 新田氏(ウィキペディア) で見て頂くと分かるかと思いますが、清和天皇から6代目が 源(八幡太郎)義家 (ウィキペディア)で、その2男が源義国です。

義国の嫡男が新田義重で新田氏の祖、次男が足利義康で足利氏の祖になり、弟の義康の方が実家を継いでいます。
どちらも将軍になってもいいような、源氏の超名門の同族ということになります。

新田義貞と足利尊氏は、どちらも義国から8代目になり、新田氏が兄の系譜ですが、義貞の頃になると無位無官で、足利の家来とまでは言えないですが、幕府内での地位、勢力・知名度・経済力で大きな差がついてしまったのです。

その原因は、様々な原因で鎌倉幕府に嫌われたという説があり、当たらずとも遠からずと言う感じです。

義貞にしてみれば、幕府や足利氏に対しては心の中でかなりの反抗心・対抗心は持っていたと思います。

1333年5月8日(太平記による)、鎌倉幕府討幕の挙兵をしたときは、わずか150騎と書かれています。
歩兵も入れるとこの数倍としても数百騎、幕府からみたらわずかな人数ですね。

その後碓氷川を渡った頃には、越後・甲斐・信濃の源氏が合流して7,000人の軍勢になり、利根川を渡って武蔵国に入り足利尊氏の長男と合流する頃にはさらに増えて、何と20万余騎(゚Д゚;) の軍勢になった。

新田軍はそこから一気に鎌倉街道を駆け上り、小手指原の戦い・久米川の戦い・分倍河原の戦い・関戸の戦いに勝利し、稲村ケ崎を突破し、由比ガ浜の戦いを勝ち、鎌倉に突入した。

最後の5月22日の東勝寺合戦で勝利し、執権北条高時が自害して鎌倉幕府滅亡となります。
挙兵からわずか16日と言う迅速さであり、新田義貞に人望があったのもその一因であったかと思います。

討幕の報が後醍醐天皇の元に伝えられ、天皇は京都二条の富小路御所で、建武政権を始められました。


その後足利尊氏が反旗を翻えすと、国内は内戦になり、天皇方の大将として、尊氏と戦う中で、1338年7月2日越前藤島荘で流れ矢に当たり38年の生涯を閉じました。

なお義貞の弟 脇屋義助 は兄を信頼し、控えめで、兄とのきづなが強く、挙兵後義貞と常に行動を共にし各地を転戦しました。


義貞がなくなった後も、越前国の指揮を引き継ぎ、活躍したが、足利軍に敗れ、四国伊予国に渡った後、1342年病没したとのことです。
奇しくも兄と同じく享年38歳。

この方は詳しい資料がさらに少ないのですが、昔から私はなぜかこの脇屋義助という人物像がとても好きで、もしかしたら新田義貞以上に好きかも知れません。(;^ω^)

ここまで駆け足で書きました。詳しい内容は省きました。
私の実力のない筆力ではなかなかうまく伝わらない気がします。

今日も読んでいただきましてありがとうございます。

参考資料
ウィキペディア、太田市HP、新田町HPほか

2 件のコメント:

  1. 新連載(?)、楽しみに拝読しています。
    今はあの世に入る明治生まれの私の母が、歌を唄うと「桜井の別れ」でした。
    進展を期待しています。

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  2. 呑兵衛あなさん、いつもコメントありがとうございます。
    歴史を書くのは難しいです。
    今度は違う人をよく調べて書きます。(;´・ω・)

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