2018年6月23日土曜日

新田義貞公、非運の名武将(1)

久々の「歴史に人あり」ですが、私の興味ある時代は、鎌倉時代末期から室町時代初期の、混乱した激動の時代です。
その中でも南北朝時代のそれぞれの武将の動きには関心があります。

織田信長や徳川家康のような強大な武将があまり登場せず、足利尊氏の権力さえ決して強いものではなかった時代で、読み解くのが少し難しいですが、それもまた歴史の面白さかな。(o^―^o)

この時代は、「私好み」の様々なキャラクターの武将が登場しました。
私の関心の高い人物が何人もいますが、最も好きで興味深い武将が、新田義貞です。

新田義貞肖像、狩野探幽原 小川破笠(藤島神社蔵)
出典:ウィキペディア、(パブリック・ドメイン)

大名や武将の「公」の敬称は、なぜか上杉謙信公と、この方にはつけたくなります。(;´・ω・)

簡単な略歴です。(異説がある項目もありますが一応の通説です)

1300年 鎌倉幕府御家人・新田朝氏の嫡男として上野国新田荘で生まれる。幼名・小太郎 弟:脇屋義助

1318年 家督継承。新田氏本宗家8代当主となる。

1332年 河内国で楠正成の挙兵。正成討伐に向かう。

1333年 3月、幕府に反抗し無断で新田荘に帰還。護良親王と接触?
同5月、幕府と軋轢増し、討幕の兵を挙げ15日で鎌倉幕府を破る。
鎌倉占拠。足利尊氏は、それに先立ち京都制圧。
同8月、建武政権。義貞・護良親王と足利尊氏との確執。親王失脚。

1335年 北条時行の中先代の乱。以後新田と足利の対立顕在。
後醍醐天皇、足利尊氏・直義追悼の宣旨、義貞は錦の御旗を賜った。
新田軍は矢作川の戦いで勝利するが、その後劣勢になり帰京。

1336年 後醍醐天皇側が勝利、京都奪還。足利軍九州まで敗走。
湊川の合戦で、東上する足利軍を迎え撃つが敗退する。楠正成自害。
帝方分裂、義貞は越前へ向かい、後醍醐天皇は吉野へ。(南朝)

1337年 足利軍さらに優勢の中、義貞劣勢。

1338年 越前国藤島で、足利方の斯波氏などの軍勢と交戦中、矢の乱射に遭い命を落とす。享年38歳と伝わります。

以上の略歴では、タイトルの「正義の武将」の人柄がどうもあまり伝わりませんね?
今日はここまでにして、続きをまた書きますのでよろしく。

新田義貞 のことを詳しく知りたい場合は、⇐左の名前がウィキペディアにリンクしますので、よかったらどうぞ。


太刀を海に投じる新田義貞(月岡芳年画)
出典:ウィキペディア、(パブリック・ドメイン)

今日も読んでいただきましてありがとうございます。

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