2018年5月4日金曜日

昭和40年代初めの思い出

新潟市は太平洋戦争の間、日本海航路の拠点港だった、新潟港封鎖のための機雷投下等以外は、都市の規模の割には米軍による空襲があまりなかった、数少ない都市だといわれています。

50Kmほど離れた県第二の都市の長岡市は、1945年8月1日の空襲で市街地の80%が消失していたにも関わらずです。

広島・長崎に新型爆弾(原爆)が投下された後、今まで空襲が殆どなかったので、新潟市民の間に「長崎の次は新潟だ!」という恐怖が広がりました。

当時の畠田新潟県知事は終戦の5日前の1945年8月10日付け・11日配布の、17万人新潟市民への、事実上の強制疎開を命ずる知事布告を出し、13日までには、殆どの市民が疎開し、数日間無人の町になったそうです。

画像:総務省ホームページより 知事布告
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/shinetsu_01.html

8月15日に我が国は無条件降伏し、終戦を迎えたので、新潟市民にとっては最悪の事態は免れたのですが、あと数日遅ければ本当に新型爆弾が投下されていたかも知れません。

実際に新潟市は米軍の投下の目標にはなっていたと言われています。

 スミマセン、ここまでは長い前置きでした。
      <m(__)m>

昭和40年に中学校を卒業して高校に入学しました。
その高校は、上の前置きにも関連しますが、戦前に建てられた木造校舎で、空襲を免れた古風ではあるが、立派な建物でした。

その学校の門をくぐって、本当に高校生になったんだと実感しました。
そこで昭和43年まで、3年間の高校生活を送りました。

高校に入って思ったことは、留年して同じクラスの同級生になった年上の者が2人いて、なぜか「高校と言うのは大人の世界だな~、中学校とは違うな~」と思ったものでした。

昨日のブログでも書いたのですが、学校では普通の高校生活を送っていたのですが、校外の私生活では、Kというちょっと変わった1人だけを除いて、誰とも付き合いませんでした。

Kは2年生の時までは数学があまり得意ではなく、と言うより全然できなくて、私が微分積分なども教えてやってたものですが、3年になったら急に数学に目覚め、私から見たら天才的な数学少年になりました。

Kとだけは何故か気が合い、家を行き来して、よく遊び、よく学びました。
学校の帰りに新潟の町で遊び、お金がなかったので、よく普通の食堂の半額位の、新潟市役所の地下の?食堂で飯を食いました。
これが安くて美味かったですね。 
当時市役所のラーメンが3~40円位だったように記憶しています。

卒業後、Kの父親は私の親父と同じく工場の労働者で、裕福でなかったため、大学進学を諦めて、1度地元の企業に就職しました。

ところが1週間の研修が終わった時に、突然会社を辞め、1年自宅浪人して、翌年某国立大学の理学部数学科に上位の成績で入りました。

後日なぜ会社を辞めたのか聞いたのですが、彼曰く、
「研修が終わった時に面接があり、夜間の大学に行きたい旨伝えたのだが、うちではそのような制度はないので、大学に行きたければ会社を辞めるしかないと言われ、あっそうですかと、言ってその場で辞めてきた」
と言っていました。

大学には奨学金とアルバイトで、自力で行ったと言っていました。
Kは大学卒業後、最大手の損害保険会社に入社しました。

私が高卒後4年間勤めて、大学に行ったのは、Kの影響もありました。
4年ではなく、2年位で決断すれば良かったかなとも思っているのですが。

今日も読んでいただきましてありがとうございます。