2018年3月24日土曜日

中世の九州を駆けた名将、菊池武光

今日の投稿のタイトルは、ちょっとオーバーかもしれませんが、個人の感想です
鎌倉・室町時代の歴史にあまり関心のない方も、スルーしないでぜひ読んでね^_^;

肥後(現在の熊本県)菊池氏第15代当主 菊池武光。(⇐ウイキペディア)
元応元年(1319年)?~文中2年(1373年)享年53歳?または52歳

本朝智仁英勇鑑・菊池武光(月岡芳年作)
出典:ウィキペディア(パブリック・ドメイン)

九州の武将では、戦国時代の島津義久、大友宗麟、竜造寺隆信らが有名ですが、それより200年も前に、私が九州史上最強と思う菊池武光という武将がいました。

この菊池武光という武将を知ったのは、北方謙三の「武門の王」という小説でした。
北方謙三の、室町時代初めの、南北朝を舞台にした初めての歴史小説で、1989年の作品です。

読んだのは、平成に入ったころで、もう30年近く経ちますね。
この小説は、いまだに印象が強いのですが、(先日ブログに書いた)大塔宮 護良親王 の弟の征西将軍宮 懐良親王 がもう1人の主役になっているのも大きいとおもいます。

菊池武光の、或いは菊池氏の私のイメージとしては、つぎのようです。

とにかく強い武将・一族であったが安易な戦いはしなかった。

下剋上・裏切りで勢力を広げた武将ではなく、正攻法を駆使し、潔ぎよい。

一族が一致結束をして時代に立ち向かい、同族どうしで戦わなかった。

南北朝時代に、懐良親王との利害思いが一致し、時代を躍動的に駆け抜けた。

反骨精神旺盛であり、且つ懐良親王に対する忠誠心は高かった。

のちの戦国時代をはじめとして、鎌倉時代以降、大名家では家督を巡って等の、一族間の争い・粛清はつきものでしたが、菊池氏の菊池武光の時代にはそれがなく、イメージは良いと言ってもいいです。

室町時代初期、南北朝の時代に、後醍醐天皇(南朝)の皇子、征西大将軍の懐良親王を九州隈部山城で迎えた菊池武光。
この時から九州の南朝勢力として、快進撃を続けます。

九州の北朝勢力を一掃し、一応九州を制圧した後、元々南朝に服していて反旗を翻した小弐氏・大友氏と総力を挙げて戦った有名な「筑後川の戦い」(1359年)でも勝利します。

これは菊池軍4万、小弐軍6万計10万が戦い、双方で5千の将兵が命を落とした、九州一の激戦でした。
日本史上でも、3大合戦の1つとされているそうです。

しかしこの戦いで勝利はしたが、損害も大きかったのです。
菊池武光と懐良親王は翌々年、再起した少弐・斯波勢を破り、再度九州を制圧し、ついに東上を決意。

その頃都では2代将軍義詮が没し、義満が後を継いでいます。
武光らは、これを機に1368年東征の7万騎の軍を挙げて、長門・周防へ進軍を開始した。
いや~かっこいいですね?
しかしここまででした。

瀬戸内海を完全に掌握していなかった東征軍は、北朝方の大内氏の抵抗で敗北を喫した。
この後大宰府の征西府は固めていたが、徐々に勢力を弱め、北朝方の今川了俊が新九州探題として派遣された。

武光らはこれと対峙するが、とうとう大宰府は包囲され、征西府は崩壊し、筑後高良山に逃れた。
11年間、征西府で九州の派遣を握った懐良親王と菊池武光でした。

翌年高良山の攻防戦の中で、菊池武光は53年または52年の生涯を終えた。
わずか50数年の波乱万丈の人生で、歴史に残ることを成したと思います。

なお懐良親王は、その10年後の永徳3年(1383年)に、隠居していた筑後矢部というところで、病気で薨去されたと伝えられています。

武光が亡くなった後、菊池氏は衰退しましたが、明治35年その子孫は男爵位を与えられたそうです。

ちなみに、西郷隆盛の先祖は菊池氏の家臣で、江戸時代元禄年間に島津氏の家臣になったそうで、西郷隆盛も、安政5年12月奄美大島に潜居させられた際、「菊池源吾」という変名を使っています。
これは、「わが源は菊池也り」という気持ちで名付けたといわれています。

今日も読んでいただきましてありがとうございます。