2018年3月28日水曜日

横浜の思い出(1)

この当時の話は、リアルに現在周りにいる人はカミさん以外誰も知りません。
新潟にいる妹は少し知っているかと思いますが。
このブログを読んでいただいている、あなたにはお話しますね。^_^;

今日は横浜に行くまでの、簡単ないきさつです。

新潟の高校卒業後、名古屋近郊の1部上場の工場で4年間働きました。
高校3年時、鉄工所の職人だった父親に、大学の負担をしてもらうのは、無理だと考えて、進学を諦めて就職しました。

ただ後日進学働きながら、お金を貯めて学校に行こうとは、何となく思っていました。

工場の4年間で、大学4年分の授業料は貯めて、あとはアルバイトしながら大学に行けば何とかなるだろうと思っていました。
大学に行くことだけを考えていて、何をやりたいかは全く考えていませんでした。
やや甘かったですが、高度成長はまだ続いていたので・・・。(-_-;)

その工場を8月に辞めた後、5か月くらい、東京でアルバイトしながら受験勉強しました。
昭和47年、23歳になっていました。

月曜日から金曜日まで、朝8時から5時まで仕事をして、帰って午後7時位から午前2時~3時まで、集中的に独学で受験勉強をしました。
64㎏の体重が58㎏まで落ちました。

参考書は書店で求めました。
理系は能力的に無理なので、文系3科目(英語、国語、日本史)。
1発で受からないといけないので、模擬テストを受け、偏差値を調べ、自分のレベルを調べました。
翌昭和48年、当時の授業料のできるだけ安い大学をいくつも受験しました。
受験料もばかになりませんでした。(・。・;

立命館大学、神奈川大学、東洋大学、近畿大学、拓殖大学など。(順不同です)
(学部は省略)
立命館大学と近畿大学は東京会場で受けました。

立命館大学は残念ながら落ちたのですが、他は合格してしまいました。
その中でどこに行くか、ちょっと迷いましたが、「東京を離れて横浜の大学もいいな」、「神奈川大学はその中で、最も授業料が安いな」というわけで、神奈川大学に決めました。

23歳の私は横浜市の、六角橋の大学近くの間借りを、学生課に紹介してもらい、昭和の48年3月から52年まで4年間、横浜市に住んでいて、学生時代を過ごしました。

他の大学に行ってたら、人生は変わっていたかもしれません。
分岐点でした。
第一カミさんとは出会っていなかったですね。
今それを言ってもしょうがないですけどね。(;´・ω・)💦

以前にも書きましたが、神奈川大学は昭和48年当時もまだ、学生運動が治まらず、ざわついていて、静かに勉強できる環境がやや整っていなかったように思います。
まあ、環境が整っていても勉強はしなかったかもしれませんでしたが。

入学式は中止、休講が多く、試験も中止が多くレポートが試験替わり、というような環境でした。

横浜に引っ越した3月、鼻がむずむずし、くしゃみ・鼻詰まりになり、耳鼻科に行ったら
「もしかしたら最近言われてきた花粉症というアレルギー症状かも知れないですね」
と言われました。
46年前の春3月で、花粉症とは43年の付き合いになります。(・。・;

私の人生の判断はかなりいいかげんでしたが、何とかなるものですね。

続きます。

今日も読んでいただきましてありがとうございます。