2018年2月17日土曜日

越後の龍 上杉謙信

新潟県出身のものとしては、歴史に人物あり、のカテゴリーの最初に新潟(越後)出身の英雄、「越後の龍」「毘沙門天の化身」と呼ばれた、上杉謙信公の名前を上げたいと思います。

この記事の3行目に、上杉謙信と敬称をつけましたが、歴史上の人物なので、敬称は次の行からと次回からの人物にもつけません。

上杉謙信は、越後守護代長尾為景という武将の末子で、戦乱の最中の
1530年(享禄3年)今の上越市にある春日山城で出生
1543年(天文12年)13歳で元服して、長尾景虎と名乗る
1548年(天文17年)18歳で長尾家を相続。守護代となる
1553年(天文22年)23歳、信玄と対決第一回川中島の戦い
1561年(永禄4年)31歳、山内上杉家を相続、名を政虎、
            関東管領就任、次に輝虎を名乗る、
            最激戦の第4回川中島の戦い
1564年(永禄7年)34歳、第5回川中島の戦い
1570年(元亀元年)40歳、北条氏と和睦、法号謙信を称す
1571年(元亀2年)41歳、北条氏と同盟破棄、信玄と対陣
1573年(天正元年)43歳、武田信玄病没、越中を平定
1576年(天正4年)46歳、武田・北条氏と和睦
1578年(天正6年)48歳、関東大遠征直前、脳溢血で逝去

上杉謙信の一生を簡単な年表形式で書きましたが、これでは簡単すぎて
よくわからないと思います(;´・ω・)

各上杉家同士で争い、弱体化していた上杉家督を、長尾姓でありながら継ぎ、武田信玄と10年以上も闘いながら、関東にも17回大軍で出撃し、越中・能登まで平定した上杉謙信、どんな人物だったのだろう?

強い武将といえども、京の都や鎌倉あるいは尾張、大阪といった、当時の文化圏から遥か離れていた地方の大名なので、資料が多くないのもあると思うのですが、不明な点も多く、また諸説あるようです。

一般人の私には、一次資料に触れる機会もなく、有ったとしても読み解く力もないので、ウイキペディアや、ネット、研究本に頼るしかない。

小説や映画、テレビドラマも参考になるが、フィクションも多く含まれており注意ですが、その方が面白いのも正直なところです。

私の思う上杉謙信の人物像としては、

権威を重んじ敬意し、関東管領職にこだわり、かつ利用した。
義理堅く、約束事を守り、大義名分を重んじた。
戦場では勇猛果敢、正々堂々、ほぼ無敗。
家臣には寛容であったが、反乱も多かった。
自ら毘沙門天の化身と称し、質素、ストイック、女性の影が少ない。
有名な武将なのに、小説や映画・ドラマでは、意外と主役が少なく、主役の武将の敵役の方が多い。

謙信の越後統一後は、信濃・関東・越中などが戦場になり、越後の田畑は荒れることがなく、生産力は上がり、民は潤ったので、強い武将だったというだけでなく、現在に至るまで越後(新潟県)では人望が厚いと思います。

ただ富山県などの近県では、上杉謙信を嫌っている人が多いようです。
過酷な、神も仏もない非道な侵略者だった、という認識でしょう。
先祖が侵略されて、焼き討ち等にあったのだからな・・・。

武田信玄も、昔侵略された長野県の人はどう思っているのかな?
当然あまりいい印象では無いかもしれません。

私は甲斐の武田信玄も上杉謙信もどちらも好きな武将、歴史の人物です。嫌いな人には申し訳ないですが(;´・ω・)💦

越後(新潟県)は上越(上越市など)中越(長岡市など)下越(新潟市など)があり、南北に長い「国」です。

上杉謙信の居城は上越で、私の育った下越とは、距離も離れていて、更に新潟市は城下町ではないので、同じ「国」ですがどちらかと言うと、下越人の上杉謙信への思いは、やや抑えめかもしれません。

歴史に興味のある方は下記も参考になると思います。

上杉謙信 ウィキペディア
上杉謙信公ゆかりの地めぐり 上越観光ナビ

自分で書いていて物足りない気がしますが、拙い文をながながと書いていても飽きられますので、この辺にします。

今日も読んでいただきましてありがとうございます。

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