ソ連抑留から帰った父は、祖父の代からの家業のー野鍛冶というもので、刀鍛冶とは違い、所謂村の「鍛冶屋」ーをやっていましたが、時代の流れとともに、個人家業の農具の「鍛冶屋」は成り立ちにくくなり、昭和30年頃から、鉄工所に勤めることになりました。
この「鍛冶屋」の最後の頃を、5歳位だった私は、覚えています。
1歳の妹を育てながら、コークスの火の熱の中で両親が働いていました。
鉄工所と鍛冶屋の違いは、火を使うか使わないということです。
鍛冶屋はその名の通り鍛造で、高温の火を使います。
どちらも職人の世界ですね。
鉄工所に勤めていたころの父親は、3人の子供が高校を卒業するまで、休みもなく働いてくれました。
これには今でも感謝しています。
職人であった父は、力も強く気が短い性格だったようで、小さいときは、いたずら坊主の私は、良く叩かれていたものでした。
ところがある日、中学生の私は父のそばにいました。
父が新聞をとろうと手を挙げた時、私は無意識に反射的に手で防御の姿勢をとりました。
いつも頭を叩かれていたので、反射的な行動だったんですね。
中学生ながら、とても気まずい思いがしましたが、父は何を思ったのでしょうか?
その日以後、1度も父から叩かれることはありませんでした。
もう55年前のことなのですが、このことはいつも思い出されます。
今思えば、この日から少し大人になった気がします。
子供の頃から、父は家にいる時間が少なく、私は18歳で家を出たので、父と接する時間は少なかったので、この日のことが思い出されるのですが、何となく甘酸っぱい思い出です。
その父は75歳で亡くなりました。
まあ平均寿命位だったのですが、晩年は病気との闘いでしたね。
父より3歳年下の母親は、その後79歳で亡くなりましたが、どちらも遥か昔のような気がしています。
そして私も、両親の亡くなった年齢にどんどん近づいて来ています。
両親に会える? 日もそう遠くでは無いかもしれません。
正月早々の話題としては、そぐわないと思われる方もおられるかも知れないですが、
門松は冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし
というものがありますが、このような心境でもあります。
昼 手製ラーメン
夜 まだ残っているカレー
食事はマンネリ化しています
今日も読んでいただきましてありがとうございます。
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