2016年10月30日日曜日

読書感想 信長さまはもういない を読んで

どうも、読書感想です。

書名   信長さまはもういない
著者   谷津矢車  
発行所  ㈱光文社


谷津矢車という小説家は4,5年前から歴史小説などを書かれていたようですが、今まで知りませんでした。
1986年生まれで、今年まだ30歳位だそうです。

この小説は姉川の戦いのエピローグから、本編は織田信長が本能寺の変で歴史から退場した後の、山崎合戦から清州評定、小牧長久手の戦いまでを池田恒興を中心に描いている物語です。

主人公は信長の乳母兄弟であり側近の池田恒興で、生真面目でやや頼りなく優柔不断な人物として設定されています。
そして、
恒興の長男 之助(別名:元助)
   次男 三左衛門(後の池田輝政)
   娘婿 森長可
他におなじみの羽柴秀吉、蜂須賀小六、丹羽長秀、須田信澄、
柴田勝家、永井伝八郎(徳川の旗本) といった登場人物です。

池田恒興という武将が主人公となる歴史小説は大変めずらしいですね。作者の目の付け所がひと味違っています。

そして「信長さまはもういない」という題なのですが、実は恒興の心の中にはいつも信長がいた。もらい受けた秘伝書という信長の覚書を通して・・・・。

登場人物の中で、恒興の他に、光っている人物は、次男の三左衛門のように描かれているようです。
しっかりしているのか惚けているのかわからかった次男が良く考えてみるとやはり最もしっかりしていて、もしかしたら自分を超えているのかもしれないと悟った恒興です。

この次男は小牧・長久手の戦いで生き残り、父と兄の家督を継いだ、後の池田輝政です。
播磨姫路藩52万石の初代藩主になり、姫路城を現在の形に築いた、人望のある武将として知られています。

いままで小牧・長久手の戦いは、概要を知っているくらいでしたが、今回よく知るようになりました。
いろんなエピソードがあるものです。
歴史小説はいいですね?

2016年10月29日土曜日

沖縄で基地反対運動をする平和団体って

どうも、団塊定年おじさんです。

昨日に続いて、沖縄の基地反対運動のことを書きます。

いつも拝読させて頂いている、セミリタイアの方のブログに、
沖縄の基地に反対している”平和団体”がブラックな人員募集をしているという記事がありました。

新聞の記事が写されていて、これはひどい団体だな~と思ってしまいました(;´・ω・)
このブログ主の方も、何考えてんだ と言っておられます。
ここまでやるか!という感じですね。

この記事は、昨日私が機動隊員の発言のことを書いた事にも関連しているので、もう少し詳しく知りたいと思ってyahooで”平和団体 逮捕 ”と検索してみました。

いろいろ出ていますね。
琉球新報の記事で、抜粋しますと、この”平和団体が”
抗議方法を検討
 「逮捕されても生活に影響のない65歳から75歳」を募り、行動に打って出る準備を進める・・・・

とありました。

そんな65~75歳がいるわけないだろう!
生活に影響出るに決まっているだろう!
俺もその年齢になっているんだ!
だいたい”行動”ってどんなんだよ!
年寄りは鉄砲玉か!
とツッコミどころ満載ですが、こいう問題だけではないですね?

こういう記事を堂々と載せる新聞社というのは、どんな人間が運営しているんだろう?
国に対して犯罪行為を行おうとしている団体ってどうなんでしょう?
またこの団体を支援しているかのような一般紙の新聞社というのは、おじさんには考えられません。

沖縄には行ったことがないのですが、実際に行ってみたり、自分で情報を集めないと、今起きていることがわからない世の中ですね。
ところで、この求人はハローワークで申し込めるのかな(・_・;)💦

読んでいただきましてありがとうございます。

2016年10月28日金曜日

沖縄の基地反対の市民団体って

どうも、団塊定年おじさんです。

沖縄のヘリパット基地建設反対運動を行う市民団体が、フェンスを掴んで揺らしたりするのに対して、大阪府警から派遣されていた若い機動隊員が、「どこ掴んどんじゃボケ、土人が」
と言ったのをビデオに撮られて問題になっています。
これを撮ったのはどんな人間なのかな?

確かに失言だと言えますが、反対派の圧力や行動に対して、独り言で言ってるくらいの声の大きさで、どなっているようではありませんでした。
反対派の方も警察官や公務員個人を写真に撮ったりして、お互いエスカレートしているのですね。

ただ土人と言った機動隊員は府警から処分されています。
更にこの機動隊員を擁護したとして、大阪府知事がマスコミなどから批判されたりしています。

基地そのものや移設の問題から離れて、末端の警察官の発言がどうしたとかになっているので、問題がずれているように思います。
基地反対の市民運動を行っている方々は、地元の人より本土から来ている人(プロ市民などという)の方が多いとも伝わっていますね。

こちらで見ていてはわからないパワハラなどが、日常的に行われているのでしょうか?
大変政治的な問題を含んでいるので、基地問題を論ずるのは、本質をよく見て、聞いて、勉強する必要があると感じています。

2016年10月27日木曜日

フォレスタ 知ってますか

どうも、こんにちは、団塊定年おじさんです。

フォレスターはスバルのSUV自動車で、私にはちょっと、ごつい感じで似合わない車のようです。
私が次に乗りたいかも?と興味あるのは、ミニ(クーパー)やフィットかスイフトなどの小さい車です・・・・(;゚Д゚)

あっ、いえいえそうではなく、フォレスタでした。(;´・ω・)

あなたはフォレスタというコーラスグループをご存知でしたか?
フォレスタは、2003年から活動しているコーラスグループです。
日本テレビの「こころのうた」という番組のために結成されたそうです。

現在、毎週月曜の夜放映されています。


現在男性7名、女性6名、ピアノ4名で、皆さん発声、音量、ハーモニーどれをとっても最高ですね。

私は夫婦ともども5年くらい前からファンになってしまいました。
たまたまテレビで、昭和の初めのころの小学唱歌を視聴してからが始まりです。

彼らは全国をコンサートで回っていますが、チケットはすぐ売り切れてしまうこともあります。

私はとくに明治時代の歌や、寮歌、小学唱歌などが好きで、フォレスタの歌にはピッタリではまっています。

まだフォレスタをお聞きになっていない方にはお勧めです。
YouTubeでもフォレスタで探すと出ますよ。(o^―^o)ニコ




2016年10月26日水曜日

宇都宮城址公園の破裂事件について

どうも、団塊定年おじさんです。

23日に72歳の元自衛官の男(といっても17年前に定年退官して今は無職老人)が宇都宮城址公園で破裂させて、自分が亡くなり、3名の人に重軽傷を負わせたというむごい事件のニュースがありました。
事件に巻き込まれて、重軽傷を負った方は大変お気の毒です。

この事件では、その男が自宅に放火、自分の車に時限で吹き飛ばし、炎上も起こしています。
男の自宅の隣の家は壁と窓が焼けて多きな被害です。
又隣に置いていたどなたかの車も炎上していました。

このニュースを見たときは、何が何だかわからなかったのですが、続報やブログやYouTubeの投稿など見ていると、この事件の背景がだんだん解るようになりました。

定年退官後の家庭内のトラブルで家族に裁判所に持ち込まれ、裁判では、自分の方が負け、家族や裁判官に恨み・復讐心を募らせての自ぼう自棄の犯行だったと理解しました。
被害妄想のようなものがあったのでしょうか?

しかしながら、この男の72歳という年齢を思うと、このような大それた事件を起こすエネルギーと行動力にやはり驚きました。

この犯人の男は現役の時は、佐官クラスのエリートで、教官などもしていて、国と国民の安全を守るべき考えを持っていたであるはずですが、
恨みとか復讐心だけではない、何か心の闇(今流行りの、この言葉しか思いつきません(・_・;))があったのかな?
これは、他人にはなかなか解らないのでしょう。

昨年の6月に新幹線車内で、71歳の男が、乗客を巻き添えにしてガソリンで焼身してなくなった事件がありましたが、背景は違いますが、行動が元エリートの宇都宮の犯人の男と似ているようなのが不気味です。

数としては少ないですが、70代老人のぼう走巻き添え事件として、私の記憶に残るニュースになります。
今回は被害者が亡くなっていないのが何よりの救いです。
被害者の方の、早くの傷の御回復をお祈りする次第です。

私もあと数年で70代になりますが、このような、いかれた老人にはなりたくないな~(;´・ω・)💦

2016年10月25日火曜日

今日の日常のこと

どうも、団塊定年おじさんです。



昨夜は、未明の2時頃まで起きていたので、今日は朝8時起床。
いつも睡眠時間は6~7時間くらいです。
DHCのサプリメントを数種類、「飲むヨーグルト」と一緒に飲んで、次に牛乳とコーヒーをカップに一杯づつ飲みました。


午前中は本を読んで、虎ノ門ニュースを見たり、ヤフーニュースを見たりしています。
テレビはリタイアしたころはたまに見ていたのですが、現在はほとんど見ません。


家内がワイドショーを見ていると、つられて見てしまうので、テレビのない部屋で、パソコンなどを見たりいろいろいじったり、本を読んだりして過ごします。


まだ寒くならない、来月の初めに箱根に行こうと思い立って、ネットで安いホテルを予約しました。
こうした場合予約はじゃらんネットか、ホテル直接です。
平日はまだ空いているところもあります。
1泊2日で、車で行きます。紅葉がまだ見られるかな?


家にいる時は、昼食は1時過ぎに、基本的に自分でつくります。
週のうち2,3回昼食抜きにします。
今日はうどんをつくりました。
今日の具は、油揚げ、豚肉、白菜、椎茸など。素人の自家製です。
ラーメンをつくるときもあります。麺類が多いです。
お味は・・・? 味より栄養です(;´・ω・)


そんなことをしながら、今日も家内といつもの公園へウオーキング。
ウオーキングは1時間くらいです。
公園まで車で15分。
気温は暖かめです。シャツ1枚でOKです。


ウオーキングというより、公園内の景色を見ながらの散歩です。
公園の木々も葉っぱが赤や黄色のものもありますが、半分以上散ってしまったのもあります。


北海道から雪の便りもかなり前から届いていますので、あと1か月もすると、こちらも冬ですね。


ウオーキングの帰りにスーパーへ寄って、少々お買い物をして、そのまま帰宅。
ニュースを見たり、軽い夕食をして、風呂に入ったら今日の1日は終わりです。

少ない年金ですがストレスのない1日を過ごしています。
これでいいのかなと、内心時々思っていますが・・・。

以前病気の項目で書きましたが、妹の旦那の病気が心配なので、今年の冬は遠出の旅行などに行かないようにしました。
その後の病気の具合など少し気になっています。

春になったら、どこかへ行けるかもしれないので、それまで貯金をしておこう。(`・ω・´)


今日も読んでいただきましてありがとうございます。

2016年10月24日月曜日

ステレオタイプという言葉について

どうも、団塊定年おじさんです。

ステレオタイプという言葉があります。
この言葉は私はなぜか、どうも好きになれないというか嫌いな言葉の一つでした。

よくニュースの解説や、時事問題にも、この言葉を使って解説している文や、○○をステレオタイプに言うな、と逆にいうような場合でも、この字を見るだけでどうもいやな気分でした。

じゃお前はなぜこの言葉について書いているのだと呆れられるかもしれません。
矛盾していると思いますが、すみません、あえてちょっと書いてみます。

この言葉(stereotype)は、印刷のステロ版(鉛版)の、印刷術から来ていて、判で押したように同じということのようで、もともと社会学の用語だそうです。固定観念とか紋切り型とか。

人の所属、職業、出身都道府県、人種、国等々、物事のとらえ方、見方についても、ステレオタイプが使われます。

例えば私のように団塊の世代という言葉は、どちらかというと悪い意味でよく使われます。たとえば、

人数が多い、年金逃げ切り、現役時代働きすぎ、高度成長をつくった?左翼おやじが多い。
学生運動をやって卒業と同時に会社にもぐりこんだ、わがまま、
自己中心的、「俺たちの若いころはな~」とよく言う、会社で人数が多いので後がつかえた?・・・・!

あまりいいことはないですね?
こう言う様に言われ続けて、「でも俺はちがうんだよな、そういう奴は、意外とすくないんだよ。」と思っている人も、私のようにいますね?

私はこのことがステレオタイプで言われたので、この言葉自体も嫌いにになったのかも知れません。
他の事でもよくあると思います。
先生(教師)は・・・ 警察官は・・・  今どきの若い者は・・・
新潟県人は・・・ 横浜人は・・・アメリカ人は・・・ イタリア人は・・・ 中国人は・・・ ○○大学卒は・・・ 理系は・・・等々

ステレオタイプという言葉で思ったことを、定年リタイアした団塊世代のおじさんが書いてみました。(;´・ω・)


今日も読んでいただきましてありがとうございます。

2016年10月23日日曜日

秋の夜長、夏目漱石の本を読みました

どうも、団塊定年おじさんです。

今日は夏目漱石、新潮文庫版 「虞美人草」の感想です。




「虞美人草」は漱石が明治40年に、東京帝国大学等の教職をすべて辞し、朝日新聞社に入社し、職業作家として初めての連載作品です。40歳のころです。

当時大学の先生は現在とは比べものにならないくらい社会的地位が高く、尊敬されていたようです。
大学は明治40年当時、全国に3校しかない東京、京都、東北の帝国大学のみです。

逆に新聞記者や、小説家というのは、社会にそれほど認められていない職業であったそうです。
なので、大学の先生を辞めてから職業小説家になるのは大変な決断だったのでしょう。

この小説の登場人物は、おもに20代の若者男女それぞれ3人づつです。 
甲野欽吾27歳   哲学者  
甲野藤尾24歳   欽吾の腹違いの妹・近代的女性
小野清三27歳   文学者・詩人・優柔不断
井上小夜子21歳 小野の恩師の娘・大和なでしこ
宗近一 28歳   外交官志望・顔も体も四角
宗近糸子22歳  一の妹・可愛い娘
 
序盤は、漱石の初期の「坊っちゃん」や「吾輩はネコである」等に比べて、文章にユーモアやキレがなく、美文調で漢文が多く会話以外は読みにくいと感じました。だらだらとした感じですね。

当時新聞を読んでいた人は、インテリが多く教養もあって、このような小説を好んでよく読んでいたのかな?と感心しています。
自分が20代の頃だったら、あまり読む気がしなかったかもしれません。

小野と2人の女性の三角関係を中心に、物語は進んでいく恋愛小説のようですが、それぞれ自我が強く私利私欲もある。
男同士の関係や、明治時代の家督相続、親子関係、もからんで、中盤からは、結構面白くいっきに読んでしまいました。

終盤の藤尾自身の悲劇で、クライマックスですね。
藤尾は悪女なのか。小野は優柔不断な男なのか。
宗近こそが本当の男子だったのか。

やはり、頭のいいこの小説の漱石先生の文章は、「坊っちゃん」等に比べると私のような凡人にはなかなか難しいものがありましたが、読んで面白かったとはいえます。
また、明治・大正時代の都市の様子が、年代によって少しづつ違うのが興味深いです。
これは、他の小説にも言えて、読む楽しみの1つでもあります。

詳しい小説の内容は、ネタバレになりますので書きません。
あしからず。
興味のある方はぜひ一読してはいかがでしょうか。

2016年10月22日土曜日

今さらですがコンクリートはアルカリ性

どうも、団塊定年おじさんです。

1か月前位ですが、東京都の豊洲新市場の床下に水が溜まっていて、テレビの画面でリトマス試験紙を浸すと濃い青になり、PHが、12~14ということで、強アルカリ性ということが分かった等のニュースがありました。

この水が強アルカリ性である原因は、複数の見解があるようです。
一般的に考えれば、水が新しいコンクリートを通ったり、コンクリートを長時間浸していれば、アルカリ性になる原因の1つであるとは言えると思います。

コンクリートはセメントに、水や、砂、砂利を混ぜて作ります。
セメントと水が反応して、水酸化カルシウム等のアルカリ性のものができます。

鉄筋コンクリートの建物等では、長い間に空気中のCO2などによって、コンクリートの中性化が進み、鉄筋がさびて、劣化が早まり、老朽化ということになります。

定期的な大規模修繕を行えば、この劣化のスピードを抑えることができますが、35年あたりで、老朽化はかなり進むと思っています。



コンクリートのアルカリ性のことで、こんな心配のことを考えてしまいました。

今、となりの敷地に鉄筋コンクリート造りの建物を建てる工事をやっています。
基礎工事が終わって、型枠や鉄筋の工事をやっているところです。
これが終わると、コンクリート流し込みという工程があるのですが、結構興味深いです。

何もない所に鉄筋コンクリートの建物が立つというのは、見ていて面白いものです。
ただ、この工事はけっこう音がします(;´・ω・)

2016年10月19日水曜日

ちょっと雑学を ③

どうも、団塊定年おじさんです。

今日は首の骨についての雑学です。
首の骨は頸椎(けいつい)といいます。

私はパソコンに向かう時間が長いと、とても肩や首が凝ることがあります。
その時首を回して首の骨をポキポキ鳴らすと、気持ちよくなったような気がしますね?

しかし、この首をポキポキするのをいつもやっていると首の回りや、頸椎に負担をかけすぎて、よくないことがあるようです。

ポキポキ音が鳴るたびにに首の骨にズレが生じることがあるかもしれません。
また頸椎の中に動脈や静脈や神経が通っているので、これに衝撃をあたえて、わずかにでも傷つける可能性もないとはいえません。

これによって危ない疾患を招くこともあるかも知れません。
このようなことを専門のお医者さんが指摘しているようです。

それを知ってから、私は首ポキポキをしないように気を付けています。(;´・ω・)

なおこの頸椎ですが、哺乳類はごく一部の例外を除いて、7つの骨で形成されています。
人間もねずみも豚もキリンも、同じく7つだそうです。
この例外は、ナマケモノなどでは、6つとか9つだそうです。
意外とこんなことを考えたりすることは、あまりないかもしれませんね?

2016年10月18日火曜日

新潟県知事選挙で思ったこと

どうも、団塊定年おじさんです。

私は日本海側で育ったので、新潟県関係のニュースについては、つい関心が向きます。
新潟県は、近年では違いますが、以前は超が付く保守王国でした。

新潟県をはじめ日本海側のニュースが、全国ネットで取り上げられることはあまりありませんね?

金沢くらいかな?
昔は裏日本などと言われていた日本海側各県。
全国ネットのニュースは地震と東京電力柏崎刈羽原発関係か北陸新幹線、それに田中角栄関係位しか記憶にありません(・_・;)

ここにきて全国ネットのニュースになったのが、新潟県知事選です。
原発再稼働慎重派の泉田知事が4選を目指すと思ったのですが、新潟日報との軋轢?などで突然の不出馬となりました。
これにより今回の新潟県知事選は突然注目を浴びたようです。

10月16日の知事選の結果、野党系推薦の米山隆一氏が自公推薦の森氏を破って当選しました。
この米山氏は医者で弁護士だそうです。
一応原発再稼働慎重派ということになります。

これには実に、「ええっ~」と思いました。
それほど原発に於いては自民党に対する支持がなかったのか。
県民はよほど原発に否定的だなということです。

これは新潟県民の選択です。
他県の者がとやかく言うことはないですね。(`・ω・´)

過半数以上の新潟県民が原発再稼働というより、原発そのものに疑問や不安を持っているということでしょう。
このことは注目しなくてはならないと思います。

その多くの県民は「何で首都圏の人間のために、新潟県民が危険かもしれない原発に向き合わなければいけないのか?」という素朴な疑問が根底にあるのかも知れません。
私が新潟県に住んでいたらやはり、そう思うこともあるかもしれません。
福島原発を見ているだけに。

ただ、中東情勢の先行き不安や、中国の南シナ海、東シナ海の動きなどを考えると、国民としてエネルギーの確保をどうするか?真剣に考えなければならない課題だと思います。
なかなか簡単に結論は出ませんね?

今日のニュースでは、東電の株が大幅に下落しているそうです。

2016年10月17日月曜日

ちょっと雑学を ②

どうも、団塊定年おじさんです。

こんな雑学を知って、目から鱗(うろこ)が落ちる(た)などということがありますか?

”目から鱗が落ちる”という故事ことわざは最近でもよく使われます。
また目から鱗の○○とか、読者の注意を引く時や、宣伝コピーにも使われますね?

何らかのきっかけによって、今まで解らなかった物事の実態や本質が見える様になることを言います。
もともと日本のことわざではなく、新約聖書の中の言葉なのです。

「新約聖書」 使徒行伝 第9章 の中に出てきます。要約します。

熱心なユダヤ教徒のサウロは、キリスト教徒を迫害している側にいたが、ある時イエスの「なぜ私を迫害するのか」という声を聞いた後、目が見えなくなった。

あるキリスト教徒がサウロのために祈った。
すると、目から鱗のようなものが落ちて目が見えるようになった。
こうして、サウロは、キリスト教徒のパウロとなり、布教活動を行った。

これが目から鱗が落ちるの語源です。なるほど^_^;

興味のある方は、新約聖書使徒行伝第9章を読むと詳しくわかります。

今日も読んでいただきましてありがとうござい

2016年10月15日土曜日

ちょっと雑学を ①

どうも、団塊定年おじさんです。

”雑学”について書きました。
雑学って自分にとって結構好きなジャンルでして・・・・・。
本を読んだり、少し気になることをネットで調べたりして、頭の中に蓄積していることもあります。

知っているようで知らないこと。
知っていても知らなくても別に困らないこと。
でも少し知ったら気になって調べたこと。
殆どの人が知らないこと。

ブログを書く合間に、時々これはと思う雑学やうんちくらしいこともちょっと書いてみようと思いました。
あまりためにはならないかもしれませんが(;´・ω・)

本日は最初の、話したくなる雑学です。

現在の人口(2015年)は、
東京都 1351.3万人  新潟県 230.5万人 です。
しかし明治時代の一時期に新潟県の人口は東京より多くて、日本で一番だったことがあるのです。

数字については、把握していませんでしたので、ネットで確認してみました。
調査方法、資料はいろいろありますので、差があると思いますが。

明治4年の廃藩置県後、県の合併などあり、
明治7年   東京府 85万人   新潟県 136万人
明治35年  東京府 151万人  新潟県 171万人
明治36年  東京府 179万人  新潟県 171万人

以後東京府の人口が増えて差は拡大していきます。
ただ、当時の新潟市の人口は、5万人程度だそうです。
当時は新潟県を始め、日本は農業国で、明治35年前ころから工業が徐々に拡大し、人が都市に集まりだしたのでしょう。

ちなみに明治35年ころの日本の(内地)人口は、4500万人くらいでした。

明治時代の夏目漱石先生が活躍していたころは、東京は200万人以下だったのですね。
それから100年で、6倍から7倍になったのはすごいですね?

今日も読んでいただきましてありがとうございます。

2016年10月14日金曜日

耳鼻咽喉科と買い物

どうも、団塊定年おじさんです。

鼻づまりと、のどの違和感で、行きつけの耳鼻咽喉科に行きました。昼前くらいだったので空いていました。
鼻づまりは、昼間起きているときはいいのですが、夜寝ていると詰まります。かなり前からです。

またのどは、具合が悪くなったりして、ときどき耳鼻咽喉科に行きます。
この耳鼻咽喉科は、もう24年前に初めて診察してもらってから、ずっと行っています。
特に春は花粉症で、毎年必ず数回は行きますね。

ずーっと花粉症で、これが治っても慢性鼻炎のようになっていて、軽い鼻づまりがあり、本当にやっかいです。
今回は、ムコソルバン15mgという鼻の錠剤と、のどのトローチを各1週間分処方してもらってきました。
これでなかなか治らないんですよ(;´・ω・)

この医師は、手術などしなくても、軽いのでおくすりで治るというので、
まあこれで様子を見てみよう。
耳鼻咽喉科とは、一生のお付き合いです。

夕方、地元のスーパーにお買い物です。
おとといイオンに行ったので、今日は地元のスーパーです。
 
いつもの、平和な日常です。
明日もがんばりましょう。(`・ω・´)

2016年10月13日木曜日

リタイア後の生活の安心は

どうも、団塊OLDおじさんです。



このブログに訪問していただいている方は、もうリタイアしているか、リタイアが近い将来にある方が多いのかと思います。



リタイア後の生活に不安(心配)のある人は、調査にもよりますが、96%とか、75%とか、3人に2人などといろいろ公表されているようですが、不安に思っている人が多いのは間違いないですね。



その不安を挙げてみると、 

  1. お金(年金、老後資金、借金、ローン)
  2. 健康、(病気、けが)
  3. 孤独、
  4. 介護
  5. 仕事


その他にもあるでしょうが、この不安はかなりの割合で”お金”で何とかなる場合があると思います。



少しでも不安を少なくするにはどうしたら良いか考えてみました。

私自身も不安はないことはありません。
今からでは遅いのですが、リタイア前の私(=中小企業社員・退職金殆どない・年収そこそこ・たぶん将来年金少ない)に戻れるなら、自分や、自分と同じような立場の人にこうしたほうが良くね?と伝えるように書いてみます。



ある日気が付いたら、貯金も資産もあまりなかったと思ったら、とにかく貯金をしよう。
遊ぶお金を減らして、月10万円。


今50歳としたら65歳までに1800万円貯まります。
もし55歳としても、65歳までに1200万円貯まります。
僅かな退職金でもプラスすれば、リタイヤ後はとりあえずは路頭に迷うことはないでしょう。小金も積もれば山になる^_^;


また厚生年金は65歳までかけましょう。
そのため65歳まで嘱託でもその会社にとどまること。
耐えられないほど嫌でなかったら、しがみつきましょう(`・ω・´)
60歳で辞めるのとでは年金受取額がかなり違います。
5年間安くても給料が入ります。



少しくらい貯金がたまっても、株投資やFX等には手を出さない方が良いかもしれない。
私の経済や投資の知識・能力では勝てません。
大体中高年になって資産が少なかった私は投資を始めるには遅いしセンスがないと理解しよう。
バブルのころ少し株を買ったりしたけどダメだった。(;´・ω・)




いろいろな投資話や、自分に無理なネットビジネス、サイドビジネスなどに心を動かされない。




タバコは吸わない。パチンコ・ギャンブルはしない。
退職金でいい車に買い替えようと思わない。(;´・ω・)


このように心がけるだけで、お金に関しては安心度は上がるでしょう。
いわゆる勝ち組ではない、当時の中高年の私には、身の丈に合った質素で地味な生活をするのが最適だと思いました。


今の私には振り返ってみて、できたことと、できなかったことがありました。



リタイア後は、特に賃貸では住居費が最も多い負担になると思います。
またローンが残っている人は、持ち家でもそうでしょう。

持ち家でローンが残っている人は、頑張って、できれば60歳までに遅くても65歳リタイアまでに完済した方が良いと思います。
後が楽です。





まだ50歳くらいで賃貸住宅に住んでいるとしたら、
例えば月7万円の家賃で80歳まで30年間払うと、2520万円になりますね? リタイア後はきびしいですね。
(わかりやすくするための一例です)




将来は空き家が余りすぎて借りやすくなる場合もあるでしょうが、逆に高齢になると賃貸住宅が借りにくくなることも考えられます。




そのような不安がある場合には、できることなら資産価値が低くても、郊外などの中古の安い1戸建てを購入するのも良いかもしれません。ただし安くないと厳しいと思いますし、古いと修繕費用はかかると思います。






それでも老後まで、賃貸料を払うより楽になるかもしれません。




集合住宅の中古は安いものもありますが、それ自体安くても、管理費や積立金や駐車料がかかったりしますので、その負担も考えなければならないと思います。
また集合住宅ですので自分の一存では、思う様にならない場合もあります。







私の県では、1戸建ての空き家も結構増えて、不動産屋さんのチラシや広告に1000万円前後でも、結構良さそうな中古物件が出ています。
もっと安い物件もあります。

まとまりのない話になってきましたが、経済評論家や住宅評論家のようなことは書けませんのであしからず。(;´・ω・)


読んでいただいて、ちょっと参考になることがあったらうれしいです。(o^―^o)ニコ



ここまで読んでいただきましてありがとうございます。

それでは、また。

2016年10月12日水曜日

リタイアさまざま

どうも、団塊定年おじさんです。 
家族のはなしです。

父は75歳で亡くなりました。
祖父は私が生まれたころに、73歳で亡くなっていますので、顔は写真でしか知りませんし、どんな人柄だったのか、どんな生活をし、どんな考えをもっていた人なのかは父や親せきからはあまり聞いていません。
晩年の写真を見ると「明治のおじいさん」という感じです。?


でも私の父を育ててくれた、有り難いじいさんです。
そのおかげで私が存在しています。
昔はそのようなことをあまり考えていなかったので、私も年を取ったようです。

私も父や祖父が亡くなった年齢にだんだんと、近づいてきました。

私がブログを書き始めたのが、リタイア2年後ですが、きっかけはやはり、リタイア(定年)ですね。
リタイアしますと、精神的、物質的、時間的に、生活環境もガラッと変わります。

定年でリタイアの方は、家族構成も、資産も、年金額も、考え方も、生き方もさまざまですね?
私はそんな中では超凡人で、ごく普通のどこにでもよくいる定年おじさんの一人かなとおもっています。

近所ではプライベートではお付き合いをしていない人が多いです。
会えば挨拶はする程度ですが、定年リタイアおじさんなんだから、堂々としていればいいのに、あまり外に出ない傾向がどうしてもあります。

男性が働いている昼間の時間ですと、合う人には「こんにちは!」くらいですね。
会話はあまり弾みません。(;´・ω・)


でもだんだんと、定年リタイアしている人が増えてきました。

いま働いていない人間は、社会に対して申し訳ないという気持ちがまだ自分にあるのかも知れませんな?
60歳をすぎていても。
いまひとつよくわかりませんが。

自分を見つめつつ、これから定年リタイアする方や、もうリタイアした方に、少しでもいい記事を書けたらいいな~などと思っています。

今後とも、よろしくお願いいたします。m(__)m

夜も更けてきましたので、今日はこの辺で失礼します。

(父親や祖父のこともいつかまた書こうと思います)

今日も読んでいただきましてありがとうございます。

大学に入るまでのこと

どうも、団塊定年おじさんです。

昨日のM君の記憶を書きましたがその頃の話の続きです。

東京に来たときは、大学は夜間部でも行こうかな?行けるようなら、夜働いて昼間の学部でもいいかなと、結構安易な気持ちでした。
まあなんとかなるだろうと・・・・。

しかし新卒で入った工場に比べると・・・・・、東京での仕事はむちゃくちゃ重労働でした。
まともな人間扱いもされなかったような気がしました。
これは長くは続かないと思いました。

だんだんと、大学に行こうと真剣に考えることにしました。
もう22歳で、後がないと思う様にもなっていました。
誰も相談する人がいなかったので、大学を受けるまで、すべて自分でやりました。

やり方としては、私大受験まで数か月間、各教科の参考書と受験する大学の過去問を徹底的に何度も勉強しました。
模擬試験を2回受けに行きました。
ただこれだけでした。

仕事が終わってから3時くらいまでやって、7時に起きて、出勤。
睡眠時間4時間。
こんな生活でした。
64Kgの体重が58Kgになり、危なくなりそうでした。

もう後がなく、受かったところに行くしかないため、自分の学力で確実に合格するだろうと思ったところを数校位けました。
若かったですね?

合格した大学の中で、東京都内のT大学と横浜のK大学(T大学は東大ではありません💧、どちらも箱根駅伝の常連校です😄)のどちらにするか迷った結果、なんとなく東京より横浜に住みたくてK大学の方に決めました。

人生の分岐点でしたね?

T大学に行っていたら、横浜で家内と知り合うことはなかったはずですね?・・・・。
良かったのか、悪かったのか (;´・ω・)💦

3月には横浜に引越ししました。
荷物は殆どありませんでしたが。

自分なりによくやったとは思いました。
勉強に関してはその後の努力はほとんどしませんでした。
大学に入ったのは自己満足でしかなかったようです。
殆ど努力をすることもなく卒業までいってしまったので。
その結果が、今の自分ですね?
そのことは超詳しいプロフィールにも書きました。

その頃の自分の行動は、今考えると理解に苦しんでしまうところが多多あります。
回り道ばかりの人生です。
残りの人生もそうかもしれません。

今日も読んでいただきましてありがとうございます。

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2016年10月11日火曜日

昭和の思い出の人々 続

こんにちは、団塊定年おじさんです。

昨日の思い出の人々を書いていたら、またもう一人を思い出してしまいました。3人目です。

高校を卒業して、名古屋近郊の工場に就職した時の同期のM君です。
彼は、”超”が付くほど真面目青年で、大学の夜間部に通っていました。

私は寮に入っていたのですが、彼は自宅から通っていました。
どいうわけか、入社した時から気が合っていて、ときどき彼の家に行ったりする仲でした。

私が4年目の夏に会社を辞める時に、その時乗っていた、スバルR2(中古で25万円で買って2年目)を使ってもらうことにしました。
「タダだとなんだから1万円だけもらうね。」ということで譲って、名義変更もしました。

彼にはいなかの実家の連絡先は教えておりました。
(昭和46年、今から45年前のことです。)


その後1か月ほどいなかの実家にいて、自分の力で大学に行こうと思っていたので、東京都内の働き先を探して寮に入らせてもらいました。
9月下旬のことです。

10月になって、M君から突然、都内にいた寮に電話がありました。
実家経由で連絡先を聞いたと言っていました。
この電話は知らせたなかったので。

「あのスバルR2で、どしゃぶりの雨の夕方に運転中、傘をさしていたお婆さん(高齢の女性)を轢いて重傷を負わせてしまった。
自分では任意保険に入ってなく、車検証入れによし吉の名義の任意保険証書が入っていた。それを、使わせてもらえれば助かる・・・・💦」
という内容で、消え入るような声でした。(;´д`)

もしかしたら、自賠責保険もそのままになっていたのかも?
保険の経緯の詳しいことは記憶が曖昧で、間違っていることがあるかもしれません、あしからず。

その後すぐに、いろいろな書類が送られてきて、印鑑証明書をとりその印鑑を押したり、いろいろ記入したりして返送。
それで、保険の手続きの方はスムーズにいったとのことでした。
私も一安心!

Mはもちろん、私の気持ちも、その保険証書1枚で救われました。
Mはその保険がなければ、賠償の自己負担が年収の何倍にもなっていたかもしれません。
私も、元の自分の車の事故で、M君が立ち直れないほどの負担を強いられたとしたら、何という気持ちになったか?

もちろん一番気の毒なのはその被害者です。
でも少しでも私の入っていた保険が役立ったとすれば、少しは救いがありました。

その後、何回かM君とは会い、年賀状は交換していましたが、50歳ころから途絶えています。
まだ元気でいるかな・・・・(;´・ω・)

この事件のあと、私は東京の片隅で一人ぼっちで仕事をしつつ、大学受験の勉強をしていました。
約5か月位でした。

その時のことを明日少し書きます。
本日はこれで。ありがとうございました。

それではまた。

今日も読んでいただきましてありがとうございます。

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2016年10月10日月曜日

昭和の思い出の人々

どうも、団塊定年おじさんです。

昨日の続きの話になります。
2人目の思い出の人で、50年くらい前の思い出です。

高校を卒業して、名古屋近郊の工場に勤めました。
昭和43年(1968年)で、今から50年近く前です(;^_^A アセ・・・

当時交代勤務があって、自然と、不規則な生活を余儀なくされていましたね。
大企業でも定年が55歳という時代でした。
その頃の平均寿命を調べてみたら、大体男68歳 女74歳でした。

その頃で、ずーっと交代勤務をしている人は、55歳で定年になって、5年位つまり60歳くらいで亡くなってしまう方が結構多かったという印象がありました。

夜寝ないで仕事をするというのは、思っている以上に体に負担があるのでしょうね?
平均寿命までいかないというのは悲しいことでした!?

年金の支給は60歳からだったと思いますが、年金をもらう頃に寿命がきた人も多くいたようです。残念!
65歳以上は、ほぼご隠居でした。 

一般的には、今の私くらいの年齢が平均寿命だったのでした。
その工場は大きくて、メンテナンスなどで、常に多くの下請(関連会社)の会社の人が入っていました。

その下請の職人さんで、Nさんという人がいました。
当時、年齢が72歳の現役でいつも工場に来ていて、ときどき顔を合わせていました。
明るい元気なおじさんで、しっかり仕事をして、休みの日や、仕事が終わってテニスをよくやっていました。腕もなかなかでした。(o^―^o)

60歳位で寿命がなくなる人も多かった時代のことで、72歳のNさんは今でも忘れられない人です。
簡単に計算してみたら、1896年頃生まれで、120年前です。
明治28年位ですね?

夏目漱石先生が28歳のころ活躍していた、明治に生まれたおじさんが、肉体労働を、若い人と一緒にやっていました。
私が18歳の頃の懐かしい時代でした。

それではまた。

2016年10月9日日曜日

昭和の忘れられない人

どうも、団塊定年おじさんです。

以前にも「昭和も(は)遠くなりにけり。」というようなことを書きました。
昭和は私が40歳までの人生を過ごしていた時期です。

その時期に、なぜか今も忘れ得ぬ人々がいます。
しかもたくさんいて自分が年を取ると、もう思い出のかなたにいる人になってしまうかもしれません。
今のうちに記録しておこうと思います。

その中で2人の方を少し書いてみます。
人生の中で偶然袖がすりあったといえるような人たちです。
そのように考えると、両親を始めとして全ての人が偶然に知り合ったことになりますが・・・・・。一期一会ですね。

今日と明日でそれを書きます。

1人目
私が小学校から高校を卒業するまで住んでいた家の、となりの家のY氏です。

昭和2年生まれで、名前が昭二といい、高校の教師でした。
うちのおやじより10歳位若い隣人です。
昭和30年代は、30歳代ということになります

昭和のはじめ生まれの人は、昭一、昭二、昭三などという名前がよくありました。年齢が数えやすいですね?

子供のころ、おじさんだな~と思っていたのですが、いま思うとまだ青年!でしたね?
昭二さんには、男の子供が2人いました。
上の子は私より、5~6年位下でよく遊んでやったという記憶があります。

私が高校生になったころ、昭二さんから、「うちの子は出来が悪いので、ときどき勉強を教えてやって。」と頼まれたことがあり、その通り卒業するまでときどき見てやったりしました。

その時彼は、小学校高学年くらいでしたか。
確かに出来が悪かった小学生だった?ようでした。(;^ω^)
私は、学校の先生なんだから、自分の子を自分で教えられないのかな?!と疑問でしたが、いろいろな事情があったのかな。

うちの親が鉄工所の工員でしたので、教員というインテリにはあこがれもありました。
でも自分が大学に行って教員になるという選択肢は当時は全くありませんでした。

高校卒業して県外に行ったので、その後Y氏一家とは縁が無くなりました。

今日はこの辺で失礼します。

ではまた。今日も読んでいただきましてありがとうございます。


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2016年10月8日土曜日

NHKで夏目漱石のドラマを見ました

どうも、



今日たまたまNHKテレビを見ていたら、夜9時から「夏目漱石の妻」というNHKの土曜ドラマを放送していました。
漱石没後100年の記念作品でしょうか?



4回完結の3回目で、1,2回は見逃したので残念でしたが、最近テレビドラマはあまり見ないので、今日は本当に偶然でした。



主人公の小野真千子(夏目鏡子)と長谷川博己(夏目金之助=漱石)が漱石先生夫婦を演じていました。
神経質で気難しく天才肌でユーモアのある小説を書く漱石先生とその家族をどのように描くか興味がありました。


小野さんの迫真の演技はぐっと胸に来るものがありよかったですね。
こういう女優なのかと、改めて知りました。
夫婦喧嘩しながら、ここぞというときは、夫を大切に守る。
鏡子さんはあまり知らなかったので、こういう小野さんの演技を映像でみると、イメージが膨らみます。



長谷川さんは、漱石先生によく似てかっこいいですね?
病気の漱石先生の演技は迫真ものでした。
明治38年、”吾輩は猫である”を書いたころには、胃かいように悩まされていたのですね。
私は、もう少し後からだったのかと思っていました。



神経質で気難しい性格は、幼少のころの、養子に出されたことによるものがあったのでしょう。
胃病も幼少のころの生い立ちが遠因になったのかな?



それにしても、明治時代の生活、服装、風俗や、建物、街並み等々興味は尽きません。
それらがわりとよく描写されていました。


さらに漱石先生の弟子がさりげなく出ていましたね。
柄本君も出てましたね。ちょっととぼけた演技がいいですね?
鈴木三重吉役ははハンサムでしたね?
こいうのが私は好きです。


漱石先生は胃かいようがなければ、もっと長生きして、”明暗”の続きや? もっとたくさんの小説を書いてくれたのでしょうね?
今だったら、いい病院やいいおくすりもあるのに!など思ってしまいました。(;´・ω・)


小説もいいのですが、こういうドラマもたまにはいいですね。


2016年10月7日金曜日

リタイア後の生き方について考えた

どうも、団塊定年おじさんです。

今日は、先日逝去した家内の従兄弟の告別式でした。
親戚一同が遠方、近郊から久々に集まって、懐かしい顔にも会えたようです。
私は、送り迎えの運転手などもやっておりました。

家内の母方の従姉妹が来ていましたが、夫ががんで手術して入院していると聞きました。
60歳前から急に体が弱くなってきたそうです。
年齢は68歳でやはり団塊の世代です。

身近な人ががんで入院と聞くと複雑な気持ちになります。

その入院している従姉妹の夫という人は、某有名私大工学部で修士を取得し、某有名1部上場メーカーに就職し、アメリカのスタンフォード大学にも留学したエリートで、取締役の部長職でリタイアして3年目ということです。

私とは大分違っていて、比較にならないのですが (`・ω・´)💦
サラリーマンとしては誰もがうらやむ、成功した人生ですね?

リタイア後、悠々自適の生活で毎年海外旅行に行き、子供も結婚し、孫もいて、趣味もあり、何不自由のない生活をしていても、わずか3年で突然の重大な病気!そして手術。

本人もまだまだしたいことがあると思っていたでしょうし、 もちろん治る可能性はありますが。
やはりかなり悲観的なことを考えてしまうのだそうです。


今は、覚悟を決めて夫婦2人で終活をいろいろ考えていると言っていました。

身近で同年代に思い病気などが立て続けにあると、こういうことを知りますと私も、やはり病気や人生について考えさせられることが増えました。

昨日からいろいろありました。

2016年10月5日水曜日

定年おじさんの病気のことです

こんにちは、団塊定年おじさんです。

最近身近に訃報や深刻な病気の報告があったので、今日は自分を振り返り病気のことについて思うことを書いてみました。

65歳を過ぎた年齢(いわゆる高齢者^_^;)になりますと、いろいろ病気が出てくるものですね?
私の場合も、今のところ命に別条のある深刻な病気はなさそうですが、それでも、いくつも病気があります。

今日も眼科に行ってきました。(`・ω・´)キリ

眼科

1年くらい前に目の中に蚊が飛ぶような症状が出ていたので、眼科で診てもらいました。

こちらの方はとくに問題ないということだったのですが、その時の検査で、軽い白内障の症状があるといわれて、それからカリーユニ点眼薬を処方してもらい無くなったら頃、診察に行くという生活になりました。

3か月に1度位行きます。これを機会に2回に1回は眼底検査をしてもらっています。

歯科

年に定期的に2回くらい行っています。
歯周病治療や、治療した歯、かぶせた金属のケアなどです。
症状があるときは、3,4回通うこともあります。

耳鼻咽喉科

花粉症と、年を通して鼻づまりの症状があります。
これは、うっとうしいです。

鼻づまりは薬だけではなかなか治りません。(;´・ω・)
手術もありそうですが、これはいやですね?

皮膚科

足の水虫に結構悩んでいます。
医者に薬をもらって、治ったと思ったら、翌年また出るという生活が何年も続いています。
今年もありましたが、去年の残った薬でとりあえず治りました。


去年の6月に、悩んでいた”じ”の手術をしてもらいました。
自分なりに調べて確かな腕の医師だと確信した先生です。

じは最初の軽いときからですと、30年来の悩みでした(;´・ω・)
切れじから始まり、治ったり悪くなったりして、とうとう、5年くらい通った今の病院で手術をお願いしました。

手術した時は、病気はやや進んでいたのですが、1日入院の手術と、10日位の自宅療養で、今ではすっかり良くなっています。ありがとうございました。

この病は、放っておくとどんどん悪化する場合が多いです。さすがに自分だけでは治せませんし、慢性で悪化すると薬だけでは難しくなります。

じ で悩んでいる方は、恥ずかしがらずに、お医者さんに診てもらうことをお勧めしますよ。(o^―^o)ニコ

血管外科

足のむくみがあり、近くの内科で診てもらったのですが、原因がわからず、結局大学病院を紹介されて、診察してもらいました。
おととしの夏のことです。

いろいろ検査などしたのですが、ここでも原因がわからず、漢方薬と利尿剤をもらって様子をみていました。
今はやはり症状はありますが、悪化はしていないようです。
こんな状況ですが、やや不安はあります。

原因で考えられる腎臓はやや機能が低下しているが、まだ大丈夫と言う様で・・・・。

行ってる医者、病院はこんなところです。

とりあえず、リタイアおじさんは、市の健康診断をきちんと受けて深刻な病気を予防したいと思っております。^_^;

読んでいただきましてありがとうございます。

2016年10月4日火曜日

朝から訃報がありました

どうも、団塊定年おじさんです。


朝8時前、まだ少しぼうーとしていた時間に、固定電話に電話がありました。
家内の姉妹からだったので、電話を替わりました。

その電話は、家内の従兄弟のTさんが亡くなった知らせでした。

Tさんは団塊の世代で、69歳の自営業の”おじさん”でした。
もともと心臓が悪くてカテーテル手術をして、ここ1年ほど良くなったり悪くなったりして、ときどき入院していました。

最近は8月から地元の公立病院に入院して闘病していたのですが、今日の早朝に息をひきとったとのことです。

手術する前は、わりと元気で、車が好きで、手術した後にも新車を買って走っていたほどでしたが、あっという間に帰らぬ人になってしまいました。
ほんとに、私の年代では人ごとではありませんね。

私たち夫婦も、親の代は殆ど亡くなってしまい、兄弟や従兄弟の訃報を聞く年代になってしまったのだと、しみじみ思ってしまいました。

このTさんが、私たちの家族の年代の初めての訃報です。
70歳手前で、本人も無念だったと思います。
安らかにお休みください。   
                          合掌

昭和20年代も「だんだん遠くなりにけり」になってきました。
妹の旦那の病気も心配です。

親からもらった命です。
週末の日まで元気で頑張りたいですね。

2016年10月3日月曜日

終末と断捨離と読書

どうも、団塊定年おじさんです。


タイトルが三題噺みたいになりました。
私にとってこの三つの事柄、がリタイアしてからつながるようになりました。

私は妻と2人暮らしです。
どちらも兄弟姉妹はいますが、 ”兄弟は他人の始まり” と言う言葉の様に、それほど深くはなく、ごく普通のお付き合いです。

2人とも年を取りつつありますので、どちらが先に逝っても、残ったものは孤独になるので、終末のことを考えようとしています。

リタイアする年齢の御夫婦の場合は、このことを考える方も多いと思います。

”自分のことは自分で” がうちのモットーです。(`・ω・´)キリ

一応ですが・・・・。
身内にも他人にも迷惑をかけたくないですね。
最後は「無に帰す」のですから・・・・・。
「無に帰した」後のことをすでに考える様になりました。

孤独はしたくないですが、それよりまず、家の家具・荷物が多すぎるので少しづつ断捨離して、減らそうよ!としている最中です。

逝ったとき荷物が多すぎると残ったきょうだいに迷惑をかけてしまうという気持ちです。
後で処分するのも大変ですので。

そのため衣類、使っていない家具、電気製品、諸々のもの、読んでいない本等、かなり処分をして、壊れるまでもう買わないようにしよう!と思っています。
なかなか捨てがたいものも多いので、思う様に行きません。(^^;)

40数年前、横浜の東横線沿線の2間の木造アパートで始めた生活。家具は14インチのテレビと洋服タンスとテーブルくらいしかなかったでした。あと小さい冷蔵庫と洗濯
今は3LDKの部屋にいっぱいです。(;´・ω・)💦


本は大きな本棚1つ分の本と本棚も処分しました。身軽にしようという気持ちです。
今ある本の残りは必要最小限のものです。
わが家の断捨離の一つですね?


昨日読書のことを書きました。
書店や出版社には、申し訳けないのですが、リタイアしてからも、本は沢山読みますが、大体図書館で借りています^_^;💦
もちろん経済的なこともあります。無職はつらいので。
雑誌と週刊誌と、旅行の本はときどき買います。

新刊書はあまり読みません。初版が古い本が好きです。
明治から昭和30年代の小説などは、図書館にそろえてありますのでお世話になっています。
読んだら返します。家に残りません。
本屋さん、出版社さんごめんなさい🙇

人間の生活は、生まれたときの状態に戻っていく途中のようです。

わが家の三大噺でした。

2016年10月2日日曜日

読書について

どうも、団塊定年おじさんです。

新しい投稿ですが、読書について一筆。

私は割と子供の頃から読書が好きで、本はよく読んでいました。また新聞を読むのも好きな少年でした。記事より連載小説を読んでいたようです。
外で草野球もやっていましたが、読書の方が自分に合っていたようでした。

子供のころは、父親が鉄工所の職工の家庭で、余裕はなかったので、本を買ってもらった記憶はあまりありません。(;´・ω・)



もっぱら学校の図書室で読んだり、借りたりしていました。
小学校の図書室の先生とは顔なじみになるほど、本を読んでいました。

それでも小学校の小さいころは、絵本や漫画の本を買ってもらっていた記憶があります。
今でも読んだ本で鮮明に覚えているのが、ピーターパンの絵本と、有島武郎の「一房の葡萄」です。

「一房の葡萄」は、有島武郎の創作童話で、大正9年に書かれています。
これを読んだとき、なんというか子供心を揺さぶられる感動を覚えました。

まるで自分が盗みをしたかのように、胸がどきどきし緊迫感がありました。最後まで読んでほっとし、今でも忘れられない読後感でした。大変強烈な記憶です。(;゚Д゚)💦


担任の先生はいい教師ですね。こんな先生は、現在の時代にはいないですか?
小説の中の「僕」」はこの先生のおかげで救われたのですね。
その後の先生はどうしたのでしょう。

その時、本って面白いものだなと、子供心に思っていた、と思います。

中学校に入って1年次の国語の教師がなぜか坂口安吾の大ファンで、いつも安吾の話をしていました。
坂口安吾は、堕落論で有名な作家です。

太宰治、壇一雄とならんで、戦中戦後の無頼派といわれていたのですが、今に至るまで知名度はいまひとつの様です(;´・ω・)

このころは安吾の本は難解でまったく理解できませんでした。
それから20年くらいして少し読みました。
さらに最近もまた、もう一度ぼちぼち読んでいます。

そして、何といっても文豪 夏目漱石ですね。
今年は没後100年だそうですね。
「吾輩は猫である」「坊っちゃん」たいていの人は一度は読んだことがあると思います。ユーモアがあり、また漱石の当時の心境が良く出ていて面白かったですね。

私は何回も読んで、忘れて、また読んでいます。
「三四郎」」や「それから」、「門」この3部作と言われている小説もいま読んでも、深い作品です。
それからこうなって、それからどうなるんだろう?・・・・・。
また明治後期の当時の人の考え方や生活が描かれ興味深いです。


特に明治時代と戦後の作品をもっと読みたい希望があります。
残りの人生全部かけても読めないと思いますが。
坂口安吾と夏目漱石はとくに、頭がぼける前に改めて、全部読んでみたいと思っています。

日を改めて、読書感想など書きたいと思います。