2016年8月28日日曜日

買い物

買い物のお供をしました

日曜日、くもり時々雨の日です。
不気味な迷走台風10号接近のせいか、今日は8月としては、かなり涼しい日でした。
1日中、エアコンのスイッチを入れなかったのは、8月に入って初めての様でした。

話は変わりますが、
今日は(私の)奥さんのお供で、イトーヨーカドーというスーパーに行ってきました。
あっ、有名なスーパーなので知ってますね? 失礼!

いつもの、運転手兼荷物運びです (;´・ω・)

このスーパーは、8のつく日が5%引きなので、奥さんに連れられて時々行きます。
食品や雑貨品、1万円前後位、買いますので、結構な量になります。
5%引きですと、500円位値引きになりますので、お得感は少しありますね?

フードコートがありますので、ここで、一休みして、軽くご飯など食べます。
話すことは、あまりありません。
定年おじさん(とおばさん)には、丁度よいひとときです(o^―^o)

実は、ヨーカドーのネットスーパーにも、登録しているのですが、
まだ1回も利用していません。
もう少し年取って、足腰が弱って車の運転ができなくなるころにネットスーパーを利用しようかなと思っています。(;´・ω・)💦

水のボトルケースとか、米などは重いですね。
でも、奥さんは、ネットより、実店舗に買い物に行く方が良いようです。

おじさん、おばさんには、買い物もいい運動になるので、健康のためにもいいかな?と思っています。

買い物といえば、イオンモールというのもわりと近くにあります。
こちらも、ときどき行きます。
イオンモールの中に映画館があって、お盆過ぎから、新しい映画を次々上映しているので、久々に行こうかなと思っています。

イオンシネマというのですか?
ほかのイオンにも普通に映画館があるところが多いみたいです。

あまり大した話がないので、本日はこの辺にしときます。
それでは、おやすみなさい。

今日も読んでいただきましてありがとうございます。

ではまた。

2016年8月26日金曜日

二世タレントの事件

2世俳優の起こした事件について

最近のニュースですが、オリンピックが終わったと思ったら、テレビ、新聞では2世タレントの前橋のホテルでの、女性従業員に対するちょっと困った障害事件一色になっています。

このような犯罪の事件報道では、ブログには書きにくいキーワードが今まで一般的に使われてきたと思いますが、今回の容疑の言葉は、テレビでは、殆ど聞いたことがなく、ますますブログにも書き辛いワードですね。
聞きにくいことばですね?

何か報道の基準が変わったのか。
あるいは警察の発表通りになったのか。
今回の事件があまりにもひどかったのか?
おじさんにも、よくわかりません(;´・ω・)

それにしても、テレビ画面やスポーツ紙の紙面の報道の、でかい文字は凄いインパクトがありますね?
「何という恐ろしい事件をおこしたのだ!こいつは!」というような
糾弾の意図が伝わってきます。 

この2世タレントの母親女優の涙の謝罪会見が、今日の朝9時からありましたが、記者やレポーターのかなり低次元のくだらない質問が多かったと思います。

生中継で延々1時間もやる必要があるのかと、思ってしまいます。質問に答える形でしたが、被害者に対してはあまり謝罪にはなっていませんでした。

今日の母親の謝罪会見が、マスコミがこの母親を許す必要十分条件なのかな?
被害者も気の毒だけど、2世タレントの母親もかわいそうだ?
ある意味息子の被害者だ?
という雰囲気を作るような。(・_・;)

私も、国内旅行では、宿泊費を安くするため、ビジネスホテルを利用することが多いですね。
低料金のこじんまりした、このようなホテルは人件費をおさえるため、深夜のサービスは、トラブルは別にして、基本的に無しで、各部屋にも行かないというものが、多いように感じます。

ホテルでも、客商売とは言え、特に女性の従業員の安全をもう少し考えたらいいのに、と思ってしまいます。
宿直の場合、深夜には各部屋には行かないとか。
一般の客でも、この2世タレントのような不届きなものが結構いるのではないか?

どちらにしても、報道が事実としたら、この2世タレントには、被害者に謝罪をしながら、十分反省してもらいたいものです。

それではまた。

2016年8月25日木曜日

好きな(喜劇)役者

渥美清につづく喜劇役者はなかなか出ない?

私の好きだった渥美清が亡くなって、もうはや21年になります
ときどきテレビで、映画の「男はつらいよ」を放送していますが、
全然色あせていなくて、面白く、懐かしいですね?

「男はつらいよ」は、平成のはじめまで続いていましたが、喜劇映画の全盛期は、昭和40年代位までだったように思います。
その頃、あるいはそれ以前までは、喜劇役者・コメディアンといわれる人が、たくさんいましたね。

渥美清の他に、当時好きだった役者(俳優)をちょっと挙げてみます。

大村崑 植木等 藤山寛美 花菱アチャコ  横山エンタツ 八波むと志 フランキー堺 森川信 上岡竜太郎  長門勇  ・・・・・・・

なつかしい~

今の時代、お笑い芸人全盛で、テレビで見ない日はない芸人がたくさんいます。

しかし、私の好きな喜劇役者コメディアンと呼べる人が、殆どいなくなったようです。
大体、この言葉自体があまり使われなくなっていますね。

でも現在、気になる俳優(役者)は何人かいますよ。
ちょっと挙げます。

柄本明 イッセー尾形 

この両人は、現在では、私にとって一押しの喜劇役者といっていい俳優です。

特に柄本明は、怪優ともいわれています。
息子の柄本佑も若いが、とてもいい味を出している俳優ですよ。
「没後20年ドキュメンタリードラマおかしな男~渥美清・寅さん夜明け前」という番組に、若き日の渥美清に扮していました。

柄本佑は、お父さんとは、違った味を出していますが、喜劇俳優としても、成功するのでは?と思ってしまいました。
今、このようなタイプの俳優は、なかなか見当たらないようなので、将来が楽しみな俳優です。

両人(柄本明、イッセー尾形)とも、「男はつらいよ」にも出ていました。

あと1人、米粒写経の居島一平を挙げます。
この人は、ネット放送の「虎ノ門ニュース」に司会進行をやっているのですが、最初見たときから気になって、ネットで検索したりして、配信されている動画を見て、一ファンになりました。

今、最もはまっています。
お笑い芸人、MC、司会者、漫才師、役者、喜劇人・・・・どのジャンルにも当てはまらない(その逆であてはまる?)、不思議な人です。

将来大物になる予感です。
ただ、本人はそのようなものを、目指していないのかもしれませんが(;^ω^)

現在、一平氏は地上波の番組にはほとんど出ていません。
ライブや、寄席などにも行ってみたいのですが、都心まで出るのが、少し難儀で困ったな~
と思っています。(;´・ω・)

今日も読んでいただきましてありがとうございます。

2016年8月21日日曜日

8月のニュースはオリンピック一色

オリンピック終盤

こんにちは、団塊定年おじさんです。

リオオリンピックは、日本時間8月22日8時に、男子マラソンや新体操団体などをはじめ、まだ残っているたくさんの競技の日程が終了し、閉会式が行われます。

あと2日ですね。
日本選手は、たくさんのメダルをとりました。
今までで、印象に残るのは、男子、女子の卓球団体と、400mリレーですかね?

卓球は強かったですが、陸上400mリレーは、アメリカやカナダを抜いて堂々の銀メダル!ボルト選手のとなりで、ケンブリッジ選手が走っていたのが印象的でした。

日本は他にもたくさんのメダルをとりました。
それをとった選手も取れなかった選手も、いままでの4年間の努力を思うとそれぞれ、感慨深い深いものがあるでしょう。

話はちょっと早いですが、閉会式で行われる、フラッグハンドオーバーセレモニーでの小池東京都知事や、一緒に参加する日本人の有名人が、もう話題になっていますが、これは、極秘事項だそうです。

興味深々というところですね?

歌手とサッカー選手が今までも出ていたので、椎名林檎さん、
歌手以外では、三浦知良選手、イチロー選手の名前が予想で挙がっているようです。

まあ、オリンピックが終わったら、そろそろ日本の夏も終わりに近づきます。
祭りの後は日本国民は、現実の世界に戻りますね?

8月初めから、東シナ海の沖縄県石垣市の尖閣沖領海内や接続水域内に隣国の公船や漁船と称する船が続々と侵入していると報道がされています。
その前には、小笠原沖での、赤サンゴの密漁騒ぎがありました。

オリンピック記事に隠れて?毎日報道はされているのですが、
まだまだ、一般国民の関心が低いようで、おじさんは、歯がゆいです。

何年も前から、サラミを少しづつ少しづつ切るように、様子を見ながら、日本の領土領海に侵入しているように、おじさんには見えます。

ウイキペディアによりますと、
”サラミ戦術”とは、敵対する勢力を、サラミを一枚づつ、スライスするように殲滅、あるいは懐柔し、少しずつ滅ぼしていくという戦術だそうです。

この戦術は、1940年代後半に、東欧の多くの国で実施されたそうです。
サラミは私は好物で、サラミに罪は無いのですが。 (;´・ω・)

日本人の多くは、この尖閣諸島のことをあまり重視していないというかよくわからないように思えます。

こういった、自分の国への侵入を防ぐには、国民の高い関心と、ある程度高い国力が必要だといえます。
平和ボケ?ではもはやダメなのですね。

先の短い団塊世代のおじさんたちより、もっと将来のある若い人たちの関心が低いと、この先の日本が、心配になります。(;´・ω・)

日本の政府も、抗議をするだけで、それ以上何もしない(できない)のでしょうか?
それでは、何をすればいいのか?
こういうことを考えなければ、隣国に足元を見られているだけにもみえますが・・・・・・。

今日はこれまでにして、また書きます。

今日も読んでいただきましてありがとうございます。

2016年8月15日月曜日

手ぶらで帰らせるわけにはいかない

オ5輪 日本なかなか調子いいですね。

こんにちは、団塊定年おじさんです。

リオ オリンピック、日本のメダル獲得は好調の様ですね。日程の半分を過ぎたところですが、金7 銀3 銅14 計24個という数です。

私は水泳の入江陵介、注目していたのですが、200m背泳ぎは8位、最後の種目の400mメドレーリレーは残念ながら、5位に終わりました。

入江陵介の試合後のインタビューは、本当に疲れ切って、見ていて気の毒なくらいでしたよ。
アメリカやイギリスの選手の、圧倒的な強さを見せつけられて、
くやしいというより、がっくりきたという感じでした。

一緒にリオに来た他の競泳選手は、金をはじめメダルをとった人も多かったので、やはり悔しいでしょう?。
本人は今回は力不足だったのかな?

人生、こういうことばかりではないので、また頑張れば、またいいこともあるよ(;^ω^)
悔しさをバネにして、もう一度出れるといいね。4年後まだ30歳。

もう一人、江原騎士(ナイト)君かっこいい名前で、さわやかイケメンというより、かわいいですね?

800mフリーリレーで、銅メダルをとれてよかったね。
インタビューの時、泣いていたのが印象的でした。

水泳で、オリンピックのインタビューで、「~を手ぶらで帰すわけにはいかない」というコメントを今回と、前回のロンドンオリンピックでも見ました。

前回は、400mメドレーリレーで、”康介さんを”・・・・銀メダル、 
今回は、800mフリーリレーで”松田さんを”・・・・ということで、銅メダル。仲間を思いやる気持ちは見ててもすがすがしいですね。

団体競技の選手の間ではこの言葉、はやっているのかな?

卓球でも、15歳の伊藤美誠が、「先輩二人を手ぶらで帰らせるわけにはない。」と、照れながらも力強く言ってました。
先輩とは、福原愛と、石川佳純ですね。
お姉さんたちは心強いですね?

まだオリンピックは続きます。また明日も応援しようっと。

おやすみなさい。(;^ω^)

今日も読んでいただきましてありがとうございます。

2016年8月13日土曜日

渥美清は喜劇俳優ナンバーワン

昭和の記憶 昭和43年まで Ⅱ

こんにちは、団塊定年おじさんです。

昭和41年(高校2年の時)に東京放送系で、渥美清の「泣いてたまるか」というドラマが始まりました。一番のお気に入りでした。


渥美清はその前から、NHKの「若い季節」や「夢であいましょう」
という番組に脇役で出演していたのは見ていました。
また、ときどき見に行った喜劇映画に、わき役か、ちょっと出ていたのを見て、面白いな~と思ったことはありました。

「泣いてたまるか」というドラマは、1話完結で渥美清が、いろんな役:特にあまり恵まれない、真面目な教師や平事務員、底辺の男、傷痍軍人、寅さんみたいな運転手等の役になり、悲喜こもごもの展開になるというものです。
これは、見ないとわからないですね(;´・ω・)

渥美清の、独特の演技力・面白さ・ドラマ展開に魅了されました。
出演した俳優も、当時から有名だったり、将来有名になるたくさんの方が出演されていましたよ。

いなかにいるまで、よく見ました。
渥美清を本当に好きになりましたね。そのきっかけが、このドラマでした。

この「泣いてたまるか」の一番最後の回が、”男はつらい”でした。トナミ運輸の運転手の役でした、これが、のちの映画の「男はつらいよ」の原型になったそうです。

渥美清は本当の喜劇役者の”ナンバーワン”です。
私にとって。 

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2016年8月12日金曜日

昭和40年代は、政治の時代?

昭和の記憶 昭和43年まで Ⅰ


こんにちは、定年リタイアおじさんです。

団塊世代のおじさんであります私は、50年くらい前の記憶になると、かなり忘れていたりする部分があります。
強い印象に残っていることは、よく覚えているのですが、そうでないことの方が多いようです。

あなたが、私と同じ年代の方だとしたら同じような記憶かもしれませんね?

昭和40年から43年は高校に行ってた年代でした。

このころの、約3年間の、記憶や、起きたこと、思ったことを、思い出しています。
先ず、特に私の関心と記憶の強い出来事を、あった順に紹介します。 

アメリカ北爆開始ベトナム戦争激化

中国・文化大革命、紅衛兵運動始まる。
多数犠牲者がでた。

映画 サウンドオブミュージック 007ゴールドフィンガー 
    赤ひげ 網走番外地            

君といつまでも  加山雄三

ビートルズ武道館公演  グループサウンズ流行始まる

TVドラマ・泣いてたまるか始まる

トヨタカローラ、日産サニー発売          

明治100年 

上越本線新清水トンネル開通

チェゲバラ、ボリビアで逝去 
(これを機に世界の左翼・革命運動激化)

第三次中東戦争  

中国初水爆実験

佐藤首相訪米  

3派全学連運動や左翼運動強まる (過激化も始まる) 

国内・飛行機事故相次ぐ

プラハの春始まる 

川端康成 ノーベル文学賞  

金嬉老事件

3億円事件  

青年は荒野をめざす・フォーククルセダース 

TVドラマ・男はつらいよ   

これはほんの一部ですが、書ききれないので、とりあえずこれにとどめます。

もし私より下の年代の方は、この時代に興味ありますか?
興味のある事柄があったら、ネット検索してみてください。

特に思いがあることについて、次に少し書いてみたいとおもいます。

今日はこの辺で失礼します。
         
またあした。

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2016年8月11日木曜日

昭和39年で子供を卒業?長かった昭和30年代

昭和30年代 Ⅴ


こんにちは、団塊定年おじさんです。

長かった昭和30年代でした。
世の中が大きく変わった年代でもありました。
もちろん、個人的にもです。

始めの昭和30年は、まだ、戦後という言葉がしっかり残っていた年でした。

ベビーブーマーの我々は、小学校の教室が足りなくて、二部授業ということがありました。
児童の半分づつ、午前と午後、授業を受けることです。
あまりに子供が多すぎ、街や学校は空襲で焼けた後遺症です。
傷痍軍人が街にたくさんいました。
空き地がたくさんあった。
社会全般がまだ貧しかったですね。

出生数を調べてみると、
昭和22年  267万人
昭和23年  268万人
昭和24年  269万人 (昭和47年以前は沖縄県を含まず、万人未満切り捨て)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
平成26年  100万人

現在の2.6倍の数ですね。(;´・ω・)

終わりの年の昭和39年は、なんと東京オリンピックです!
日本の力はすごいですね?

「10年ひと昔」と、よくいわれたものでした。
10年は、社会が大きく変わるのに十分な年月ですね(`・ω・´)
  
昭和37年から、中学生でした。
中学生の自分の記憶は、

校庭の桜が美しかったこと。

1~2年までは、よくけんかをした。

教師に怒られて、頭をぐりぐりやられたこと。

試験の成績を学年の1番から末番まで廊下に貼りだされるので、勉強を急に一生懸命やるようになった。
でも大学に行ける見込みがなかったので、そこそこだった。

町内の生徒とだんだん遊ばなくなった。草野球もしなくなった。

おとなしい目立たない中学生になった?

映画にもあまり行かなくなった。

日本海の海岸で、海を見るのが好きな少年になったこと。


あっという間に中学時代が過ぎてしまった、~様な (-_-;)

今日はこの辺で失礼します。

読んでいただきましてありがとうございます。

また明日。

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2016年8月10日水曜日

昭和30年代後半は中学生でした

昭和30年代 Ⅳ

こんにちは、団塊定年おじさんです。

こんな、きわめて個人的な私の昔のことを、読んでいただいている、あなた、ありがとうございます。

まあ、これがブログというもの??なので、
こんなおじさんもいるのか、まっいっか? 
と読み飛ばしていただければ幸いです。(;´・ω・)

少年時代の日本海地方のことを、書いてきましたが、やはり日本海、北陸といえば雪ですね?
確かに今から50年前は、今よりもっと雪が降っていたと思いますが、雪で困った記憶はあまりありません。
海に面している所はあまり降らないのが理由の一つだと思います。

それでも20~30センチ位積もるのは、よくあることでしたが。
唯一強く記憶に残るのが、いわゆる38豪雪と呼ばれる、昭和38年(1963年)1月の全国的な豪雪のときでした。

このときの記憶ははっきりあります(;´・ω・)
確かにたくさん降りました。中学1年の自分にも、
雪が降って喜べなかったでしたね。

中学校と高校は冬は石炭ストーブがありました。
エアコンはまだありません。
気温が10度以下に下がったら、火をつけると、決まっていたようです?
いわゆるだるまストーブです。形はいろいろでしたが。

現在では、石炭ストーブはほとんど、ないでしょうね。
薪ストーブはありますが。
若い人では、石炭ってなーに? という人も多いのでしょう。

昭和38年11月、日米間のテレビ衛星中継が始まり、その実験放送でケネディ大統領がなくなったニュースが飛び込んできました。
現在でも時々目にする映像ですね。

アメリカ社会の闇?世界情勢の複雑さ?
テレビのすごさ、将来性を日本中にわからせた事件でした。と思います。

このころから、日本の高度成長が本格的に始まりました。
この高度成長は、世界の流れと、田中角栄の政策の結果なのでしょうか?

でもその頃の私はまだガキで、世の中のことが全くよくわかっていませんでした(;´・ω・)💦

今日はこの辺で失礼します。


今日も読んでいただきましてありがとうございます。

2016年8月9日火曜日

昭和30年代の半ば、テレビや遊び

昭和30年代 Ⅲ

こんにちは、団塊定年おじさんです。

昭和30年代の中ごろから、テレビが一般家庭にも入り、現在につづくテレビの時代が始まりました。
私は映画も好きで、やはりよく1人や、友達と見に行きました。

3本立てというのが多かったです。
封切館でなく、場末によくあった映画館で、東映や松竹の系列館です。子供60円くらいでした。
行く回数はテレビと反比例で、だんだんと減ってきました。

昭和35年、小学校5年生の時に父親が無理をして、14インチの白黒テレビを買ってくれました。
当時5~6万円位はしたようです。割と早く買った方だったのかな?
当時の父親は、40歳過ぎの働き盛りで、給料は、休みなく働いて3万円くらい?

昭和34年ころから、徐々に安くなってきたようです。
その前、昭和30年頃まで、1インチ1万円といわれて、14インチ白黒だと14万円の価格だったようです。車を買う感覚ですね。
公務員の初任給が昭和28年で8,000円位、34年で1万円位という時代です。

それでも、昭和35年の5~6万円を、現在に換算して比較すると、40歳働き盛りの労働者の2か月分の給料分、60万円前後のものを買う感覚ですか?。

すごく高い買い物だったようですね。
まだ、電気製品は大量生産が始まる前で、高級品でした。
でも、高い電気製品が飛ぶように売れる始まりの時代でした。
国民には成長の予感があり、未来に希望を持っていた時代でしたので皆さん子供のために無理しても買ったのかな。(;^ω^)

周りの家が、次々にテレビを買いだしたころです。
その前は、食堂などのテレビが置いてある店で、たくさんの子供が自分も含めて、見させてもらっていました。「番頭はんと丁稚どん」の大村崑が人気でした。CMは三洋電機とダイハツミゼット。
テレビでもよく、お笑い番組を見てましたよ。

吉本新喜劇、松竹新喜劇、上方漫才、NHK教育テレビの教育放送、・・・・・・。こんな記憶が最も強いです。
大村崑、藤山寛美、伴淳、花菱あちゃこ、横山えんたつ、CMは明治金鶏カレー。

外の遊びは、あいかわらず草野球と冒険?
当時の住んでいた日本海の町はまだ何にもなく?、田んぼが広がっていました。

そこに、友達同士でザリガニをよく取りに行きました。
べつに食べるのではないですが、取ったザリガニを道路にまいて、車に轢かせて遊んでいた。
今考えるとひどいことをしたな~? ザリガニくんゴメンなさい!

そのほかは、昆虫採集。バスで結構遠くまで行きました。

当時は、畑と林と草むらと砂地、昆虫採取にうってつけの場所がたくさんあり、よく行きました。

地元の農家の人が、私たちガキどもが町の方から来たと知ったら、「へー!そんな遠くから来たの」と言われました。

帰りにみんなで、お店でコロッケを買って食べました。1個5円。今でいうファーストフードですね?
バスも市内子供は5円でしたよ 。(o^―^o)ニコ
1日、50円もあれば楽しく遊べました。

今思うと、父親は、日曜もなく働いていたようで、遊びに連れて行ってもらったりしたことは、一度も記憶がないですね。
また、外食に連れて行ってもらったことも、殆ど無かったですね。
よく働いた親でしたよ。このころの親は、そういう人が多かった?

昭和30年代後半はつぎに書きます (;´・ω・)

今日はこの辺で失礼します。

少年時代は、昭和30年から始まった

昭和30年代 Ⅱ

こんにちは、団塊定年おじさんです。

昭和も遠くなり、さらに昭和30年代は、はるか遠くになりました。
平成になってからでも、もう28年です。

「明治は遠くなりにけり」 という言葉があります。
愛媛県出身の俳人、中村草田男が、昭和6年、30歳位の時に、自分が1年ほど通った小学校を訪れたときに詠んだ句の一部だそうです。

昭和6年は、明治の終わりの年から20年経たころですね?
大正、昭和と時代の流れが早く、明治から20年で、 
明治は遠くなった  と、いろいろな思いを感じられて読まれたのだと思います。
この時代は激動の時代だったのですね。

そうすると、昭和の終わりの頃からの28年という年月もやはり、いろいろな大きな変化があった。
充分 昭和も遠くなりにけり と思ってもよさそうです。

私の昭和30年代前半の思い出の記憶 キーワード


映画館 (映画)

 このころは、娯楽が少なかったので、映画館が町のあちこち  
にあり、どこも客が入っていました。
私も映画が大好きで、小学校1年の時から、よく見ていました。

今でも記憶に残る映画は、紅孔雀 二等兵物語 日本誕生 
二十四の瞳 たくさんの東映の時代劇 
当時子供は、50円~60円で入れました。
親に連れて行ってもらった記憶はないので、一人か、友達と見に行ってました。特に東映には、月2回位行ったときもあります
 

海と海岸

日本海は自分達?の海でした。
日本海は太平洋の海より地味ですが、泳いだり、遊んだり・・・・・。水泳はわりと得意でした (・。・;
釣りもやりました。
海岸の砂浜で(砂)野球もしました。(;´・ω・)

ラジオ

テレビを、親が買ってくれるまで、ラジオは友達でした。よくお笑い番組を聞いていましたよ。落語や吉本の番組。NHK第二放送もよく聞きました。子供向けの番組が多かったです。
それに深夜放送。これは、後半まで続きます。

草野球
 スポーツといえば軟式の草野球でした。ほとんど毎日、放課後や日曜にやっていました。私は主にピッチャーでした (;^ω^)
他のスポーツは何もやりませんでした。野球をやるところはたくさんあったよ。海岸でもやりました。

このような小学生でしたよ。

読んでいただきましてありがとうございます。

今日はこの辺で失礼します。
 それではまた。

2016年8月7日日曜日

昭和はだんだん遠くなる

昭和30年代 Ⅰ

こんにちは、団塊定年おじさんです。

私はいわゆる団塊の世代のおじさんです。
このブログを読んでいただいているあなたも、この世代に近い方でしょうか?

狭義の団塊の世代は、戦後のベビーブームに生まれた人で、
昭和22年(1947年)から昭和24年(1949年)3年間です。
この人数、約806万人となっています。(厚生労働省の人口動態統計による)

わずか、3年間での出生数です。1年平均268万人!

これは、世界の2015年の人口ランキングで見てみましたら、
スイス全人口:824万人、イスラエル全人口838万人となっています。

この806万人という数は、それらの国に近い数字になっています。改めて見ても、多い人数ですね?
この膨大な数が、小学校に入る時から、世の中の多くの局面で、波紋をなげかけ、影響をあたえたのですね?
よくもわるくも(´・ω・`)

「団塊の世代」という言葉は、あなたも、ご存じかと思いますが、
作家の堺屋太一が1976年に発表した小説の題名から始まっています。
今では一般的に使われていますね?

あれから40年経ちました。
この年代の私(達)は20代から、よくもわるくも、団塊という言葉を意識しながら生きて来た人が多いと思います。

昭和30年は、ちょうど私の小、中学生の少年時代です。
高度成長が始まった年代ですが、地方に住んでいる、一般の労働者や農民の人々が豊かさを実感してくるのは、まだ10年以上経ってからですね。?

昭和30年代の終わりは、昭和39年で東京オリンピックの年で、新潟県に地震がありました。

次は、私の少年時代を書こうと思います。

今日はこの辺で失礼します。

2016年8月4日木曜日

東京都議会

対応がまずかった議員さん達

こんにちは、団塊定年おじさんです。

東京都知事選挙が終わって、4日経ちました。
選挙戦の時より、メディアもやや落ち着いてきましたね?
それでも、連日小池新都知事の動向がメディアで報道されていますね。

特に報道のインパクトがあるのは、やはりテレビですね?。
291万人の小池氏に投票した都民の多くはもちろんですが、国民が見てますね (`・ω・´)

テレビなどを通して国民が、新都知事の都庁での仕事や、都議会、特に自民党都議団の、新都知事への対応などについては、大変な興味をもって見ていますよ。
私もそうでした(;´・ω・)

そんな中で、小池新都知事が初登庁して、都議会各会派と議長副議長を表敬訪問しました。
新首長が表敬訪問するのが慣例だそうです。他の自治体でもそのようです。

素朴な団塊定年おじさんが思うに、「あなたたちの方が、新都知事を表敬訪問するのが礼儀なのかも知れないね?」

議員が選挙で選ばれたときには、議員の方から首長に表敬に行くのが東京都では慣例なのかな?

まあ、それはとりあえず、いいとしても、先ず自民党さんは、幹事長がいなくて、出迎えたのは都議2~3人のみ! で30秒!

議長・副議長への挨拶の時は、報道陣の前で、議長の新都知事に対してかなり失礼な振る舞いと、記念撮影を拒否!
まるで、小池劇場の中で演技しておられるようでした。

その一部始終を、報道カメラの後ろの都民、国民に見られてしまいました!
全国ネットでしっかりと報道されていましたよ!(;´・ω・)
こういうところを有権者や国民が見ているのですね。
今回のこの映像はまずかったですね。

今回の都知事選に負けたのが悔しかったのはわかりますが、
団塊世代のおじさんより、年上の方も多いのに、礼儀のない人だな~と思われてしまいました。

来年都議会選挙あるんですね。
総選挙だっていつあるかわからないですね?
かえって、太っ腹のところを見せてたいたほうが良かった。
都知事選挙で負けた教訓は生かされてないのかな?

2009年の政権交代時の、総選挙の光景がよみがえります。
あの時は、民主党が良かったというより、おごった自民党はだめ、民主党にためしに一度やらせてみようかと多くの国民が思いました。

それで、総選挙で民主党に300議席もとらせたと理解してます。
(結果的にそれも、失敗だったのですが)         (`・ω・´)

まあ、今の民進党は力も政策がなくてダメなので、そんな心配いらないよ!と思っていらっしゃるのですか?

今は、他に票を入れたいところがないので、棄権したり、やむを得ず自民党に1票を入れている有権者が多いようです。
「おごる平家は久しからず」はいつの時代にもありそうです。

その後の官邸での、安倍総理の、小池新都知事に対する対応は、なかなか友好的でかつ紳士的でした。都議会の方と比べてしまいます。

大人の対応というのですね。
役者が違うなというところですか?

都議会議員の方々も、来年の選挙のためにも見習った方がいいのかも?
と、思ってしまいました。

その後、今日のニュースで、自民党の東京都議連の幹部5人が引責辞任したと伝えられました。
これは、都知事選大敗で、しょうがないですね?

これからも、東京都庁は注目されますね?
他にもツッコミどころ満載でしたが、今日はこのへんで。

今日は、!と?を多用してしまいました。

今日はこの辺で失礼します。

2016年8月1日月曜日

自分の人生の分岐点って いくつもあった

そういえば人生の分岐点っていっぱいあった



こんにちは、団塊定年おじさんです。

この7月で、定年リタイアしてまる2年が過ぎてしまいました。
今日から8月、リタイア3年目に入ります。(`・ω・´)

この2年間、全く生産的なことに関わらず、そうかといってボランティアもやるわけでなく、消費だけはしてしまいました。
ほんとは、かっこつけてリタイアなどといっても、僕はただの無職の団塊おじさんというだけなんです。(・_・;)💦

消費だけの人生は、ほんの僅かに我が国の経済に寄与している? かもしれないですが、我ながらこれでいいのかな?とやや不安に思いつつ・・・・・8月になってしまいました。

3年目は、方向を少し変えて、少し積極的に生きようかな?などと考えを巡らせています。

いろいろな選挙が終わって、世間が少し静かになってきたので、自分の人生を少し振り返ってみたりしています。

因果応報とか、原因と結果という言葉がありますが、今の自分があるのは、過去の自分の分岐点での選択の積み重ねの結果ということですね。

分岐点といっても、人生には無数にあるはずですが、主なものを考えてみると、自分の分岐点は
貧乏なりにもっと勉強していれば
どの学校に入るか
高校で終わるか、大学に行くか
どの会社に入るか
その会社をやめるかやめないか
どの会社に転職するか
脱サラするかしないか
どこに住むか
家を買うか、売るか
車を買うか買わないか
誰と結婚するか、あるいはしないか
どんな友人をつくるかつくらないか・・・・・

考えたらきりがなくなりますね?

学校について考えると、ストレートで国立大学に入れたら?
会社では、大学新卒で大企業に入って、定年まで勤めたら?
今の人生はどう変わっていたかな?これは妄想です

人生の、とあるどこかでその時と違う選択をしていたら、今の人生はもっと良くなっていたか、悪くなっていたか?

?マークばかりつきますね。

過去には戻れませんので、わからないというのが答えです。

その、すべての分岐点で、自分が「よし」と思った決断で選択をしているのですね。
それで、いまのやや残念な自分があるとしても、これも「よし」とします。(;´・ω・)

60代もかなり過ぎると、仏教的な考えにもなってくるようです。
因果応報という言葉は仏教用語ですね。

この先、私たちは最期の日まで、自分の分岐点で選択をしなければいけないですね?
まあ、団塊おじさんにはこれも楽しいですが。

早速、明日の朝、パンを食べるか?、ご飯を食べるか?、あるいは昼まで何も食べないか? の分岐点があります(`・ω・´)

すみません、ここまでお付き合いいただきまして、ありがとうございます。

今日はこの辺で失礼します。